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2年目に巨人戦9勝。「伝説の巨人キラー」が投手に転向した訳とは?

Text:高橋安幸

19年10月、セ・リーグのクライマックスシリーズファーストステージ第1戦。始球式に登場し見事な投球を披露した御年95歳、今西錬太郎さん。
大洋がプロ野球に新規参入した1950年の開幕戦に先発し、記念すべき球団初勝利をもたらした投手だった。プロ入り2年目には、巨人戦で9勝を挙げた「伝説の巨人キラー」。
いったい、どんな選手だったのか–。取材の第3回は、プロ入り後、投手となったきっかけを掘り下げる。

タイガース名スカウトが惚れ込んだセットアッパーとは?(別タブで開きます)

伝説の巨人キラー今西錬太郎③「「野球やれ」って、何ですか?」

始球式のマウンド上では大きく見えた気がした今西さんだが、身長168センチと、野球選手としては恵まれた体格ではない。
それでも、阪急入団1年目の活躍を評した野球雑誌の記事には〈浪商時代から利かぬ気の腕白小僧であったので、どんな場面にあっても動じないというのが投手人として成功した一因を成している〉とあった。

目標であり憧れだった甲子園出場はならなかった今西さんだが、きっと(浪商の当時の最高学年の)
5年生のときにはエースだったのだろう。聞いてみると「そうですねえ、えっへっへ。もう投げてましたねえ」と照れに照れている。
浪商を卒業後、日本製鐵に入社したときは1943年=昭和18年。太平洋戦争が激化し、戦時色が濃くなって、野球どころではなくなっていた時期だ。プロ入りはまったく頭になかったのだろうか。

「プロ野球はね、軍隊へ行って、復員してから。だいたい、僕は体が小さいしね、プロなんて初めから頭にないですよ。ただ好きでやっておったんだからね」

軍隊に入隊していたとは……、どの資料にもその事実は記されていなかった。にわかに身の引き締まる思いがした。
「日本製鐵は軍需工場でね、軍隊の物を作ってましたから、景気はすごくよかったんですが、そこにいた期間は本当に短いです。そこから1年間、軍隊に行きました。昭和19年に行って、20年に帰ってきました」

復員した今西さんは浪商の野球部を訪問。戦時下で中断した練習は再開されており、部長の杉本藤次郎に会うとこう言われた。
「おう、帰ってきたか。お前なあ、なかなかええ仕事ないから。野球やれ」
「野球やれって、何ですか?」
「プロ野球やれ。職業野球、行け」
「プロって、そんなん、やれますか?」

一方、大阪・豊中にある兄の散髪屋に、阪急の球団代表、村上実がよく散髪に来ていた。村上は「レンちゃん、プロへやれ」と兄に言っていた。
伝え聞いても「俺みたいなもん、プロでやれるはずがない。別世界」と思っていた今西さんだが、浪商から戦前に阪急に入団した1年先輩の外野手、仁木安に会って聞くことにした。

「仁木さん、周りで『プロ行け』言うてますけども、俺なんか、やれるんですか?」
「やれるよ。レンちゃんだったやれるよ!」
部長と先輩、母校からの後押しによって、今西さんは「いっぺん、試してみよう」と再開したプロ野球入りを決意。46年、当初は内野手として入団し、1年目の途中から投手に転向したのはどういう事情があったのか。

「阪急は戦後、真っ先にカムバックしたんですよ。昔の有名選手もどんどん復員して帰ってきたんです。ところがね、軍隊で肩こわしちゃってるんです、皆。手榴弾、投げると痛めるし、匍匐(ほふく)前進も肩痛める。僕は幸いに、そんなにきついことはなかったですから」


大下の一発は素晴らしかった

[鉄腕]野口二郎(元東京セネタースほか)が象徴的だった。42年にシーズン40勝を挙げるなど戦前の5年間で156勝を挙げたが、46年、軍隊で肩をこわした状態で復員して阪急に移籍。
それでもチームトップの13勝を挙げるのだが、後に続くのが12勝の天保義夫だけ、という投手不足状態。そんなチーム事情が、内野手の今西さんを投手に転向させたのだった。

「気の毒やけど、僕らが憧れてた人がね、あれ? こんなボールしか投げられないのか、っていうぐらい。二郎さんはコントロールがものすごくいいから、頭と変化球で勝ってましたけど、ピッチャーが足りない。それで僕がバッティングピッチャーでほうってたらね、『お前、ちょっと来い』って、ピックア
ップされたのがきっかけなんですよ」

浪商時代と同じく「お前、ちょっと来い」だったわけだが、プロ野球のピッチャーなんてやれるはずがない、と思っていた今西さんは6月20日、後楽園球場でのセネタース戦でプロ初登板初先発。すると、わずか2安打1失点で見事に完投勝利を挙げた。

「大下弘にホームラン1本、打たれただけでね。6対1で勝ったんです、幸いにね。それにしても大下のホームランは素晴らしかった。あの、巨人の川上哲治さんのホームランは弾丸ライナー。大下のは本当に大きな、花火が上がるような当たりでね。それを一発放り込まれたけど、勝ちましたから。これが僕の、ピッチャーとしてのスタートなんです」

考えてみれば、大下がデビューした年にホームランを打たれた投手の話を聞くのは初めてだった。それも「素晴らしい」と表現するとは……。初登板で守るものもなく、なおかつ勝ったからこそ言えるのかもしれないが、打たれたことを客観視して楽しむような感覚は誰もが持てるものでもないだろう。
この初勝利を含め、プロ1年目の今西さんは7勝8敗、防御率2・80。野口、天保に次ぐ183回を投げ、14完投はチームトップだから、転向は大成功だったわけだ。この成果を当時の記事はこう伝えている。
〈スピードもあり、カーブも鋭く、投手としての生命も有していることは、今西をしてさらに今後への飛躍を期待さしめるものがあり、今西が精神的に他の投手よりも強いということは、天保と共に阪急の主力として活躍することを約束してくれそうだ〉

写真提供=今西錬太郎氏。
今西さん(右)と浜崎真司監督(中)、天保義夫(左)

のちに阪急で“二枚看板”となる天保との関係性も気になるが、投球フォームはどうだったのか。一部資料に〈アンダースロー〉とあったが、雑誌に掲載の写真で下手投げに見えるものがなかった。
「スリークオーターですね。無理せんと、自然に、これがいちばん投げやすいですから。オーバースローとかアンダースローは体を非常に使いますでしょ? これがスリークオーターでほうると楽なんですよ」

ーー次回【伝説の巨人キラー今西錬太郎④「マウンドで打者の目を見るんです」】へ続く

取材協力:横浜DeNAベイスターズ、石塚隆
参考文献:『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)

(初出:【野球太郎No.033 2019ドラフト総決算&2020大展望号 (2019年11月27日発売)】)

執筆:高橋安幸
1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。出版社勤務を経て、野球中心に仕事するライター。98年より昭和の名選手インタビューを続け、記事を執筆。著書に『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫) などがある。現在、webSportivaにて『チームを変えるコーチの言葉』、『令和に語る、昭和プロ野球の仕事人』、『根本陸夫外伝 〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実』を連載中。ツイッターで取材後記なども発信中。@yasuyuki_taka

【書誌情報】
『野球太郎』刊行:イマジニア株式会社 ナックルボールスタジアム

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伝説の野球誌『野球小憎』の創刊スタッフたちが2012年秋から場を変えて、『野球太郎』を刊行。
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