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日本をサッカー大国に。日本サッカー黎明期に老舗製薬企業の14代目が拓いた道筋

田辺三菱製薬は1678年に大阪で創業して以来、主に医療用医薬品(処方薬)を世界に届けている、日本で最も※歴史ある研究開発型の製薬企業です。

※東京商工リサーチ調べ


そんな老舗製薬企業の経営者が、今や球技では野球を抜いて競技人口が最多となった日本サッカーの礎を築いたことをご存知でしたか?サッカーが日本に伝来して間もない大正時代にその魅力を見出し、生涯をかけて日本でサッカーの普及に取り組んだのは、当社の前身会社である田辺製薬で社長と会長を務めた14代田邊五兵衞でした。生前の功績が認められ、2005年に日本サッカー協会の第1回「日本サッカー殿堂」に掲額されています。


五兵衞が残したサッカーに関する手記や物品を展示を通してその歩みとたどる企画展を、9月27日まで、大阪市の田辺三菱製薬史料館で開催しています。展示品はすべて本邦初公開です。日本サッカーの歴史を紐解くことにつながる、田邊五兵衞が尽力した当時の取り組みと、企画展における展示の一部を、ここにご紹介します。


田辺三菱製薬史料館企画展のチラシ

「サムライブルー」が日本代表のシンボルとなった経緯


パリ2024オリンピック・パラリンピックで日本選手の活躍が光りましたが、多くの競技で選手が日の丸をイメージした赤や白のユニフォームを身に着ける中、サッカーは男女とも青いユニフォームで熱戦を戦いました。今やサッカー日本代表のシンボルにもなっているこの「ブルー」はいつから?なぜブルーになったのか?その由来を示した記録※を、現在企画展で展示しています。

※公益財団法人日本サッカー協会サイト https://www.jfa.jp/news/00027129/


五兵衞の手記「服色考」によると、日本代表のユニフォームに青色が採用されたのは、1930年に東京で行われた極東大会。東京帝国大学(現東京大学)の選手が多く、そのチームカラーだった淡い青色が採用されたのが始まりと書かれています。それ以降、ユニフォームの国旗を囲む海に見立て、島国日本の代表を表現した青色が、サムライブルーとして今日の日本サッカーに受け継がれているのです。


田邊五兵衞手記「服色考」(1964)


白黒のサッカーボールが日本のリーグで採用されるに至るまで


今やサッカーのアイコンになっている白黒のサッカーボールを、日本で使用することを提唱したのもまた、五兵衞でした。まだサッカーボールの国際規格が定まっていなかった時代から、業務で世界各国に出かけては現地でサッカーボールを収集し、流体力学から何枚皮のどの縫い方が抵抗が最も少ないかを考察した結果、最もシュートが伸びるとして五角形と六角形からなる32面体の採用を提唱しました。


田邊五兵衞が世界各地で収集したボール


また、当時はボールの色も、茶褐色や黒などさまざまだった中、五兵衛は西ドイツ(当時)への出張時に見た白と黒のボールに注目。時折しもモノクロのテレビ放送が普及し始め、従来のような一色のボールではテレビで識別しづらかったことに加え、プレーヤーにも観衆にも見やすいという観点からサッカーの普及に不可欠として、白黒ボール使用の必要性を、日本サッカー協会の機関誌「サッカー」に連載していた自身の随筆「烏球亭雑話」で訴えました。


東京オリンピック(1964)ではテレビの画面に見やすいまだらのボールで好試合を見たいという五兵衞の願いは叶わなかったものの、翌年に発足した日本サッカーリーグ(JSL)で採用されて以降、白黒ボールは今やサッカーを象徴するアイテムになっています。


企画展では、田邊五兵衞が世界各国で収集した昔のサッカーボールや、ボールの形状や色への考察をまとめた手記「BALL考」を展示しています。


田邊五兵衞手記「BALL考」(1965)


「球技と言えば野球」だった時代の日本に、サッカーを普及


五兵衞がサッカーにのめり込んだ大正時代から昭和の始めにかけては、日本で球技と言えば野球で、サッカーはマイナースポーツでした。そんな中、五兵衞は老舗製薬企業の経営者という立場と人望と財力を活かして、各国から最新の理論や戦術、サッカー用品を取り寄せ、日本に広めました。


組織化を通したサッカーの強化にも取り組み、関西蹴球協会(現関西サッカー協会)を設立し関西のサッカーを底上げするとともに、日本代表の世話役を務め、東西で分断されていた選手の融合を図りました。戦後の混乱期には大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)の会長代理を務め、戦後日本サッカーの復興に尽力するとともに、現在のJリーグにつながる実業団の結成や、日本初※となる法人格を持つ市民スポーツクラブ・社団法人神戸フットボールクラブの設立に関わり、晩年は女子サッカーの普及に力を注ぐなど、日本のサッカー人口増加に力を注ぎました。

※賀川浩「このくにのサッカー」(苦楽堂、2017)より


日本サッカー界の礎を築いた五兵衞の思い。企画展を通して歩みを紐解く


五兵衞がこれほどまでに日本のサッカー振興に取り組んだのは、世界中で愛されているサッカー文化が日本で根付いて初めて、日本は国際社会に認められるという思いからでした。


五兵衞がサッカーと出会ったのは、日本代表が初めての国際試合に挑んだ頃。日本は一度も勝ったことがなく、アジアでも後発国でした。


それから100年。今日では、多くの日本人選手が海外の強豪クラブに所属し、女子代表はW杯優勝の快挙を成し遂げ、男子代表もW杯で欧州の強国を破るなど、日本サッカーは世界と伍するレベルになりました。田辺三菱製薬史料館企画展「日本蹴球と田邊五兵衞の系譜」では、日本サッカー界の今につながる遺産を残した五兵衞の歩みとともに、日本サッカーの歩みを紐解きます。


田辺三菱製薬史料館企画展の様子


また、五兵衞の日本サッカー界への貢献は、産経新聞の連載記事「『サッカー大国ニッポン』の魁」※でも紹介されています。

※産経新聞「『サッカー大国ニッポン』の魁」 https://www.sankei.com/tag/series/economy_107/




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