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三好長慶は、織田信長に先立つ天下人って本当?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

畿内から四国8カ国を治め、居城を石垣で囲った

三好長慶(みよしながよし)は阿波(あわ)細川家の家臣なので、将軍からすれば陪臣(ばいしん)に当たった。しかし、傍流の三好政長(まさなが)との家督争いや細川家の内紛に関与するうち、いつしかその権勢は主家や将軍をも上まわっていた。

長慶と阿波細川家の晴元、典厩家(てんきゅうけ)の細川氏綱、野州(やしゅう)家の高国(たかくに)、12代将軍足利義晴(よしはる)、13代将軍義輝(よしてる)などの関係は協力と敵対の間を目まぐるしく推移したが、そのなかにあって長慶は一度として窮地に陥ることはなかった。

最大版図は山城(やましろ)・摂津(せっつ) ・河内(かわち) ・和泉(いずみ)・大和(やまと)・丹波(たんば) ・淡路(あわじ) ・讃岐(さぬき) ・阿波(あわ)と播磨の一部、すなわち畿内(きない)から瀬戸内海沿岸の東半分に及んだ。しかし、管領になれるのは細川・斯波(しば)・畠山の三氏に限られていたため、その代わりとして、将軍の御供(おとも)衆、御相伴衆となることで、自己の権威付けを図った。

その版図の広大さからすれば、天下人と呼ぶにやぶさかでないが、長慶はそれまでの実力者とは違い京都に居座ろうとはせず、摂津芥川山(あくたがわやま)城には嫡男の義興(よしおき)を入れ、自身は河内飯盛山(いいもりやま)城に移った。さらに河内高屋(たかや)城に次弟の実休(じっきゅう)「之虎(ゆきとら)」、同じく岸和田(きしわだ)城に四弟の十河一存(そごうかずまさ)を入れるなど、四国との連絡に重きを置いていた。

長慶は飯盛山城に移るにあたりかなり手を加えている。従来、城全体に石垣を施したのは織田信長(おだのぶなが)の小牧山(こまきやま)城と言われてきたが、近年、飯盛山城からそれより早い時期に建造された50カ所もの石垣跡が発見されており、長慶を信長に先立つ天下人として再評価する気運が高まっている。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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