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森 長可は、なぜ長久手であえなく討死したのか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

奇襲作戦を見抜かれ、待ち伏せ攻撃を受けた

森長可(もりながよし)は織田信長の小姓として名高い森成利(なりとし)(蘭丸=らんまる)の実兄。父の森可成(よしなり)は美濃出身で、早くから信長に仕え、信長の上洛後は近江の宇佐山(うさやま)城に配置されるが、元亀元(1570)年9月、浅井・朝倉軍と一向一揆を迎撃しようとして討死。まだ13歳の長可が家督を継承することとなった。

元服後、長可は美濃衆の一人として織田信長の嫡男・信忠の軍団に配属され、天正10(1582)年2月の武田氏討伐戦では団忠正(だんただまさ)と並び先鋒を任された。

このとき、さしたる戦闘はなかったが、長可は軍功として、北信濃(しなの)4郡を与えられた。

本能寺の変では難を逃れるが、蘭丸以下3人の弟を失った。しばらく美濃で休養をとったのち、羽柴秀吉に従ったところ、同12(1584)年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いを迎える。信長の二男・信雄(のぶかつ)を擁する徳川家康と秀吉との戦いである。

長可は緒戦で家康軍の酒井忠次(さかいただつぐ)隊相手に大敗を喫していたので、汚名返上の機会を狙っていた。

その気持ちを汲んで、小牧の戦いが膠着(こうちゃく)状態に陥ったとき、長可の岳父・池田恒興(つねおき)が力を貸してくれた。裏道を通って家康の本拠地である三河岡崎を突く別動隊の編成と派遣の許可を秀吉から取り付けてくれたのである。

だが、この作戦は見抜かれており、長可らは「長い湿地帯」を意味する長久手(ながくて)の地で待ち伏せ攻撃に遭い、あえなく討死した。長可は鉄砲の一斉射撃を食らい、自慢の槍も活かせずに終わったといわれている。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


「織田信長の桶狭間の戦いの勝利は、奇襲ではなく、徹底した情報収集と天の恵みのおかげだった」「徳川家康は自らの意思で正室と嫡男を殺した」「毛利元就の遺訓、三本の矢は後世の創作」従来の通説をくつがえす戦国史の新説をたっぷり検証!人気戦国武将52人の意外な素顔と戦いがわかる!戦乱の世を苛烈に生き抜いた、個性的で魅力あふれる戦国武将たち。信長、秀吉、家康の三英傑をはじめ、北条早雲、今川義元、武田信玄、上杉謙信、明智光秀、竹中半兵衛、黒田如水……。日本史に名を刻んだ戦国の武将たちの真実と魅力を、最新研究で徹底解説します。さらに戦国史研究の第一人者、小和田哲男が、先見性、企画力、統率力、実行力、教養、5つのポイントから真の実力を判定。

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