助っ人外国人列伝/バファローズ編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。
61盗塁で助っ人外国人初の盗塁王に輝いた!ラリー・レインズ
【9位】ラリー・レインズ
〈NPB通算データベース〉
・打率 .302
・本塁打 31本
・打点 172打点
走攻守が揃った元祖・瞬足系助っ人
今から半世紀以上の70年前、NPBの組織がまだ黎明期の1953年に阪急入りしたラリー・レインズ。走攻守揃った華麗なプレーでファン魅了し、颯爽とした動きから「黒い稲妻」「黒いハヤブサ」の異名を取った助っ人外国人である。
1930年、ウェストバージニア州で生まれたラリー・レインズ。阪急入りするまでの経歴の詳細はわかっていないが、アメリカのマイナーリーグやアフリカ系アメリカ人の選手が活躍していたニグロリーグでキャリアをスタートしたとされる。
当時のアメリカは人種差別が激しく、黒人選手は活動の場が限定されてしまうような事情があったのだろう。
さて、その頃のNPBは助っ人外国人獲得に変化が出始め、それまでメインだった日系人から純粋なアメリカ人を呼び寄せるようになった。
阪急にとって3人目のアメリカ人助っ人となったラリー・レインズの1年目は、慣れない環境もあって春先の打率が.250台と低調だった。だが、徐々に調子を上げて1番打者に定着する。
何より優れていたのが日本人選手が舌を巻くほどの瞬足だ。塁に出れば盗塁を繰り返し、61盗塁で助っ人外国人初の盗塁王に輝いたのがラリー・レインズである。
また、同シーズンは三塁打を「16」も放っており、現在でもパ・リーグ記録として破られていない。ラリー・レインズの活躍もあり、阪急は久しぶりのAクラス入りを果たした。
助っ人外国人初のタイトルを次々に獲得
翌シーズンも期待されたラリー・レインズは、開幕20試合連続安打を記録する躍動を見せ、打順は3番のクリーンアップに抜擢される。盗塁数は減ったが、打撃で貢献するパフォーマンスでチームの中心選手となった。
1954年のラリー・レインズは年間を通して快音を響かせ、打率.337、18本塁打、96打点の成績で首位打者のタイトルを獲得し、打点もリーグ2位。さらに遊撃手として華麗かつ鉄壁の守備でベストナインにも輝くなど、当時の助っ人外国人のなかで最上級の活躍を見せている。
なお、助っ人外国人で首位打者・盗塁王・ベストナインに輝いたのは、日系二世や日本統治時代の台湾選手を除くとラリー・レインズが初めてである。当時はアメリカから来た助っ人外国人が珍しかったこともあり、野球ファンがラリー・レインズのプレーに酔いしれたことは想像に難くない。
後にラリー・レインズの後継者として、セ・パ両リーグで盗塁王を獲得した唯一の選手として知られる河野旭輝がいるが、走塁と守備はラリー・レインズを手本にしていたという。
こうしてわずか2年で球界一の遊撃手となったラリー・レインズ。日本で自信を付けたラリー・レインズは球団からの契約延長を断り、母国でメジャーリーガーになる道を選んだ。
メジャーの夢破れて再び阪急再入団も……
日本での目覚ましい働きを手土産に母国に凱旋したラリー・レインズ。インディアンス(現・ガーディアンズ)と契約し、2年間はマイナーでのプレーとなったが、1956年は打率.309、10本塁打、66打点、22盗塁との高成績を収めた。
迎えた1957年、ラリー・レインズは念願のメジャー昇格を果たし、96試合に出場。準レギュラーとして出場し、成績は打率.262、2本塁打、16打点、5盗塁を記録する。瞬足のわりに盗塁数が物足りない感があるも、チーム内ではまずまずの成績であり、存在感を見せた……と思われた。
ところが翌1958年のシーズンはわずか7試合の出場に終わり、9打席で安打はゼロ。同年はマイナーで打率が3割を超えていたのだが、メジャーに上がる機会は訪れなかった。
ラリー・レインズが不当ともいえる扱いを受けた理由は定かではない。ただ、一説には前述した人種差別の影響が指摘されている。
メジャーの夢を絶たれたその後の人生はあまりにも悲しい。アルコールに依存するようになったラリー・レインズは離婚し、慰謝料と養育費を滞納してしまう。そればかりかほかにも借金が発覚して解雇となってしまう。
そして自身で偽装した紹介状を阪急に送って1962年に復帰するも成績が振るわず、そこに「黒い稲妻」の面影はなかった。
復帰後1年で解雇になってしまったラリー・レインズのその後の詳細は不明。わかっているのは1978年に47歳の若さで亡くなっていた事実だけである。
公開日:2024.01.28