助っ人外国人列伝/中日ドラゴンズ編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ選手を紹介する。
チャンスで好打を連発の打撃で中日を8年ぶりのリーグ優勝に導いた!ケン・モッカ
【4位】ケン・モッカ
〈NPB通算データベース〉
・打率 266
・本塁打 277本
・打点 722打点
先輩助っ人の推薦で海を渡ったモッカ
名将・与那嶺要がチームを去り、前回紹介したジーン・マーチン退団以降は、助っ人外国人の不作が続いていた中日。成績はBクラスが定位置となってしまい、1981年から近藤貞雄が采配を振るったが、迫力に欠ける打線は得点力不足が明らかでペナント5位と低迷した。打点を挙げられる助っ人外国人の獲得は急務だった。
そこで1963年から3年間を中日でプレーしたジム・マーシャルが推薦したのがケン・モッカである。マーシャルは1981年から中日の一軍総合コーチに就任し、配球を読む理論的なモッカの打撃がNPB向きであることを見抜く。
ペンシルベニア州で生まれたモッカは、ピッツバーグ大学を卒業した1972年に地元メジャー球団のパイレーツからMLBドラフト6位で指名されて入団。
腕を畳んでボールを叩きつけるような打撃を得意としていたモッカだったが、足が遅いことから併殺打が多く、三塁の守備もエラーが多かった。
そのためエクスポズやブルージェイズと渡り歩くもメジャー定着といかず、1981年オフに自由契約になってしまう。モッカにとってマーシャルの誘いは渡りに船であり、1982年から中日でプレーすることになった。
ちなみに「Macha」の正式な発音は「マッカ」だが、球団が「真っ赤」を呼ばれるのを嫌い、本人の同意のもと「モッカ」で登録されている。
チャンスで好打を連発してリーグ優勝に貢献
誠実で真面目なモッカは年明けすぐに来日する。「郷には入れば郷に従え」の精神で日本式のハードなキャンプに率先して参加するばかりか、箸を使って日本食を食べ、畳の大部屋でほかの選手と寝起きするなどチームメイトとコミュニケーションを取っていたという。
守備練習ではユニフォームが泥まみれになるひたむきな努力によって、モッカが苦手としていた守備も上達。気さくな性格だったこともあって仲間からも愛され、開幕から3番・サードに定着するようになった。
肝心の打撃は変化球が多い日本投手と、ボールを叩きつけるような打撃が見事にかみ合う。もともと変化球打ちを得意とし、広角に打ち分ける技術を持っていたモッカは苦労なく日本の野球に馴染んでおり、マーシャルの見立ては正しかったのだ。
また、試合の行方を左右する勝負所になるとより力を発揮する頼もしさがあり、もっとも得意としたライト線を襲う強烈なライナー性の打球は芸術性を帯びた打球だった。
谷沢健一や宇野勝らとクリーンアップを組んだ強竜打線を牽引したモッカは、壮絶なデッドヒートを繰り広げた巨人との天王山で5打数5安打を放ち、翌日の試合でも江川卓から豪快な本塁打を放っている。
こうしたモッカの活躍でペナント終盤の3連戦を3タテした中日は、8年ぶりのリーグ優勝に輝く。その立役者が打率・311、23本塁打、76打点の高成績を残したモッカであることはいうまでもない。
翌1983年シーズンは成績を落としてしまったが、長打が出やすくなるように打撃コーチの助言を受け入れてフォームを改造する。すると、1984年は5試合連続本塁打を放つなど、宇野に続く恐怖の5番打者として活躍。打率・316、31本塁打、93打点のキャリアハイの成績を残して復活し、中日ファンから大いに愛される助っ人外国人となった。
引退後はメジャーの監督として大成
助っ人外国人のなかには、結果を出すとわがままになったり、調整不足で試合に臨むような選手もいる。だが、モッカは常に高い向上心を持って日本の野球と向き合い、チームメイトはもちろんファンや首脳陣を大事にした助っ人として知られる。
ほとんど休まなかったことで首脳陣からの信頼は厚く、高成績を残しても契約交渉でトラブルになることも皆無。モッカを悪く言う人は誰もいないほど誰からも愛される存在となった。
1985年のシーズンも打率・301で勝負強さは健在だったが、守備の衰えが隠しきれなくなったことや、地元愛知のドラフト1位・藤王康晴を育てたいチームの方針を受け入れ、現役を引退する。
多くの人に愛されたモッカだけに、球団はシーズン最終戦で外国人助っ人では異例の引退試合を用意。試合終了時にはモッカ・コールが鳴り止まず、選手全員から胴上までされている。
アメリカ帰国後の1987年からは、古巣エクスポズやエンゼルスの打撃コーチに就任。その後、レッドソックスのマイナーで監督、アスレチックスの一軍コーチを歴任した。
論理的な指導法が高く評価されたモッカは、2003年にアスレチックスの監督に昇格し、チームを2回の地区優勝に導いている。2009年からはブルワーズの監督を2年間務めるなど、指導者としても成功を収めた。
後のインタビューで、指導者として成功した要因を聞かれると、「日本独自の練習方法が役に立った。今の私があるのは、あの4年のおかげだよ」と語っている。
公開日:2024.02.10