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六角定頼は、先見性が高い武将といわれる理由は?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

織田信長より28年も前に楽市を実施

六角(ろっかく)氏は近江源氏の血を引く由緒ある名門の出身。源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に参加した佐々木四兄弟の一人、定綱(さだつな)の後裔(こうえい)である。定綱の子信綱(のぶつな)には男子が4人いて、長男・重綱(しげつな)の家系は大原氏、二男・高信(たかのぶ)は高島氏、三男・泰綱(やすつな)は六角氏、四男・氏綱(うじつな)のそれは京極氏となった。足利尊氏を補佐したことで知られる佐々木道誉(どうよ)は京極氏の一族である。

応仁・文明の乱が始まる頃には、京極氏は北近江で、六角氏は南近江という住み分けができていたが、両者とも国人(こくじん)領主たちを完全掌握するまでには至っていなかった。

その後、京極氏の権力が形骸化したのに対し、六角氏は定頼の代に南近江全域の平定に成功。地政学の上の立場から京都の政局にも深く関わり、将軍や細川京兆家に強い影響力を有するまでになった。

定頼には、畿内(きない)の諸勢力のなかで頭一つ抜きん出る実力を有しながら、あえて天下人になろうとしなかった感がある。

定頼が既存の武士の枠に留まらない存在であったことは、織田信長が安土で発布したより28年も前に、みずからの城下町に楽市令を発していた事実からうかがうことができる。

天文18(1549)年12月11日づけのその文書には、「紙商売の事。石寺新市(いしでらしんいち)の儀が、為楽市条、是非に及ぶべからず」とあり、「為楽市条」を「楽市なのだから」と読むか、「楽市としたのだから」と読むかで若干意味に違いが出るが、定頼の先見性を示す証拠であることに変わりはない。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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