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今川義元は、「京かぶれ」の軟弱大名だったって本当?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

天下取りにもっとも近かった文武両道の傑物

駿河の今川氏は守護大名から戦国大名への転換を巧みにやり遂げた。足利一門なだけに京文化の移入に積極的で、二男以下の男子を京都の寺で修行させることも慣例化していた。

義元(よしもと)は鉄漿(かね)「お歯黒(はぐろ)」や眉墨(まゆずみ)など公家風の化粧を顔に施し、移動には馬ではなく輿(こし)を用いていた。これを聞くと「京かぶれ」の軟弱な大名に思えるかもしれないが、義元は軟弱な性格ではなく、「海道(かいどう)一の弓取り」としても聞こえ高い、東海地方を代表する文武両道の戦国大名だった。

義元が凡庸(ぼんよう)な大名になるのを避けられたのは、ひとえに養育係であった太原崇孚(たいげんそうふ)「雪斎(せっさい)」のおかげだろう。当時の僧侶にはその学識や人脈、身分を利用して、戦国大名のもとで軍師や外交官として働く者が多く、雪斎はそんな僧侶のなかでもっとも成功した例であった。

よき師に恵まれた義元の経済政策は、その道の成功者とされる信長と比べても遜色なかった。米の生産力で劣る分は、陸海双方を通じた商品経済および金山からの産金収入で補い、流通の便を図るため伝馬(てんま)制度の確立にも尽力。

また「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」との考えから、友野宗善(とものそうぜん)という豪商を駿府の商人頭に任じて商人を統括させ、東海道の重要な宿駅である見付の町では、年貢の割増を交換条件として町衆による自治を認めるなど、「民活」の先駆けと呼べる試みも実施していた。

かくして蓄えた財力を背景に始めた西進は、上洛ではなく、尾張平定が目的であったと考えられる。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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