19年10月、横浜スタジアムで行われたセ・リーグのCS第1戦。始球式で見事な投球を見せた御年95歳、今西錬太郎さん。
彼は阪急時代に巨人キラーと呼ばれ、1947~49年には3年で63勝を挙げるエースだった。49年も19勝を挙げたが、翌50年には大洋へ移籍。
インタビュー最終回は、いかにも今西さんらしい移籍の真相。
タイガース名スカウトが惚れ込んだセットアッパーとは?(別タブで開きます)
伝説の巨人キラー今西錬太郎⑤「浪商野球部の絆は強いもんですよ」
(インタビュー中に)まさかの駄洒落が飛び出し、同席の潤子氏まで大笑いだった。が、今西さんは勝ち星のみならず、47年から3年連続で300回以上を投げている。天保(義夫)も48年から3年連続300回以上を投げているが、当時、年間400回を超える投手もいたなか、コンスタントに続けられる投手は稀だった。体の疲労、肩・肘への影響はどうだったのか。
「ああ、若さちゅうのはすごいですねえ。一晩、寝たら回復しました。その点、試合終わってマッサージしたら、『今西さんはええ筋力してるね』ってトレーナーに言われたことあります。筋肉が軟らかいから、回復が早いらしいです。これは両親のおかげですね」
では、この「エース」が翌50年、セ・パ2リーグ分立によって誕生した大洋に移籍したのはなぜなのか。
「あの当時、リーグ戦が終わった後に秋のオープン戦があって、阪急が名古屋のオープンゲームに行ったとき。ゲームが終わって名古屋駅に行くと、小林ちゅう同級生、浪商時代のファーストがいてね、『レンちゃん、話があんねん』って言うわけですよ」
浪商時代の監督、中島春雄も同行していた。大洋漁業に勤める小林が言った。
「今度、2リーグになって、大洋漁業が球団を作るんだけどね、レンちゃん、ひと肌脱いでくれんか。大洋に行ってくれんか」
この突然のお願いに今西さんは「うーん、よっしゃ、わかった」と答えたそうだが、阪急の球団代表・村上に伝えると、あっさり移籍が認められたという。2リーグ分立によって8球団から15球団に増え、選手の“引き抜き合戦”もあったときだけに、何があってもおかしくなかったのか。が、今西さん自身、移籍は頭にあったのだろうか。
「出るつもりはなかったですよ。でも、同級生がわざわざ名古屋まで来て、中島先生まで一緒で、それはもうね、浪商野球部の絆ですよ。その絆は強いもんですよ。だからね、僕は契約金がなんぼとかね、そんなの何もなくスーッと行ったんですよ」
新球団に移籍する選手には一様に高額の契約金が支払われていた。あるいは、元の球団との再契約を引き延ばして、契約金の値上がりを待つ選手も数多くいた。
そんななかにあって、今西さんは野球部仲間の思いを受け留め、期待に応えるために大洋に移籍したのだった。巨人から大洋に移籍し、選手兼任監督となった中島治康は「レンちゃん、俺の片腕になってくれ」と言って喜んだという。
そうして50年3月10日、山口・下関球場で行われた国鉄(現・ヤクルト)との開幕戦。
先発した今西さんはわずか2安打に抑えて完封し、現在のDeNAに連なる球団の初勝利をもたらし、それが今回、球団創設70年を記念する始球式に結びついたのだ。
「完封でしたか。でもその年の5月、小鶴さんの打球が当たってね」
食べないと、野球できないでしょ?
5月17日の松竹ロビンス戦。今西さんは3対3の7回からリリーフで登板し、8回、3番・小鶴誠を打席に迎えた。小鶴の強烈なライナーがみぞおち辺りを襲い、反射的に出した右手の平に直撃。骨に異常はなかったが、後遺症に悩まされた。
「スナップを利かして投げるとピシーッと痛みが走って、腕を思い切り振れなくなったんです。それで野球生命、終わりましたね」
同年は10勝も13敗と負け越した今西さん。翌年から成績が下降し、53年に阪急に復帰。翌54年には東映に移籍したが、55年限りで引退すると2軍コーチに就任し、のちにエースとなる土橋正幸らを指導。しかし1年後、スカウトへの転身を打診され「僕には向いてない」と退団。
新たな職を求め大阪へ帰ろうとしたとき、浪商の後輩で東映時代の同僚、米川泰夫の知人に立正佼成会の野球部を紹介され、報酬や条件などまったく後回しにしてコーチに就任。
59年には、同会が開設した東京・佼成学園高の野球部監督となった。あらためて甲子園が目標になると、66 年春、68年春、74年夏と3度出場。86年に退職するまで27年間指導した。
その間には阪神スカウトに転身した小鶴が訪れ、野球生命を潰したことを詫びたが、今西さんは「おかげで高校の監督を
やらせてもらってます」と答えた。
「プロでやってて高校の監督する人、少ないですよ。僕はそういう巡り合わせがあってね、プロ野球、精一杯やって、高校の監督、精一杯やって、もう言うことないです」
〈献身〉の二文字が頭に浮上する。今西さんは高等小学校に引っ張られたときから周りの人に指示され、助言され、懇願され、依頼され、野球人生の転機で前進してきた。ひたすら好きな野球に身を捧げ、自己の利益を顧みずに尽力した証が95年の歳月なのだ。
「野球のおかげでね、こうして95歳でも、日常の生活は自分でできてます。だから、始球式もできたんですよ。はっはっは」
1時間半、ずっと笑みを絶やさずに話してくれているので忘れそうになるが、この年代の方に会って話を聞くことは奇跡に近い。戦後間もない頃からプレーした野球人の目に、今のプロ野球はどう映っているのか。
「僕は退団してから顔を出してなくて、阪急のOB会もご無沙汰してるんです。だから今のプロ野球はわからないけど……、今の人に言っておきたいのは戦後ね、戦後はみんな千葉の松戸から弁当持ちで行ったんですよ、後楽園球場へ。食糧難で、東京のその辺りで食事を食わせてくれるところがないから。常磐
線で松戸まで行って、旅館で3度の食事と弁当。田舎でいいお米がいっぱいありましてね。食べないと、野球できないでしょ?」
(文中一部敬称略)
本コラム終了。次回より【“謎の病”イップスを乗り越え、その先へーー】へ続く
取材協力:横浜DeNAベイスターズ、石塚隆
参考文献:『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)
(初出:【野球太郎No.033 2019ドラフト総決算&2020大展望号 (2019年11月27日発売)】)
執筆:高橋安幸
1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。出版社勤務を経て、野球中心に仕事するライター。98年より昭和の名選手インタビューを続け、記事を執筆。著書に『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫) などがある。現在、webSportivaにて『チームを変えるコーチの言葉』、『令和に語る、昭和プロ野球の仕事人』、『根本陸夫外伝 〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実』を連載中。ツイッターで取材後記なども発信中。@yasuyuki_taka
【書誌情報】
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公開日:2020.03.10
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