助っ人外国人列伝/巨人打者編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。
オールスター8回出場。川上哲治らを相手に首位打者3回獲得。中日監督としてV10を阻止した与那嶺要!
【打者5位】与那嶺要
〈NPB通算データベース〉
・打率.311
・本塁打 82本
・打点 482打点
フットボール選手から野球選手に転身した与那嶺要
意外かもしれないが打者編の第5位にランクインしたのは、1950年代の第2期巨人黄金時代を支えた与那嶺要。巨人で活躍していたのが約70年前と現在ではあまり知られていないが、瞬足好打で後のプロ野球界に大きな影響を与えた与那嶺要は巨人の助っ人列伝に欠かせない選手なのだ。
ハワイのマウイ島に移民した日系2世の与那嶺要は、幼い頃からスポーツ万能でもともとはアメリカンフットボールのプロ選手だった。だが、肩を怪我して現役を断念し、野球選手としてハワイ選抜対パ・リーグ選抜に出場したことがきっかけで巨人を紹介されて1951年に途中入団する。
当時の日本は戦後間もないこともあり、与那嶺要への厳しいヤジが飛んでいたが、日系人らしい不屈の精神と持ち前の瞬足を武器にレギュラーの座を勝ち取った。
そして快足を武器にした内野安打や自身が出塁することを目的としたドラッグバントを駆使して、1年目から打率・354、26盗塁の成績を残す。こうした実績でファンから認められ、巨人の1番打者として韋駄天ぶりを発揮するようになった。
脅威の瞬足で1イニング3盗塁と2イニング連続本盗を記録した与那嶺要
翌年は神業的な流し打ちで知られる千葉茂と1・2番コンビを組み、リーグ2位の打率・344、38盗塁、104打点とチームを牽引し、この年からオールスターに8年連続出場を果たした。
この頃の与那嶺要は変化球を呼び込んで腰を使って打つバッティングを確立し、1954年には打率・361の自己最高成績を残して初の首位打者に輝いた。1956〜1957年も同タイトルを獲得しているが、「打撃の神様」こと川上哲治や千葉茂などの名打者を押しのけて3度の首位打者は快挙と言えるだろう。
なお、与那嶺要は併殺崩しのスライディングや本塁突入時の激しいクロスプレーを得意としており、アメリカ仕込みの走塁技術を日本に持ち込んだ人物としても知られる。
危険なプレーを良しとせず「お嬢様野球」と言われていた当時、与那嶺要のプレーに批判が集まることがあったが、現在ではこうした走塁技術が当たり前になっており、日本野球のレベルアップに寄与したことは間違いない。
こうして日本球界で順風満帆に歩みを進めていた与那嶺要。だが、1960年の打率が.228に急降下し、翌年に川上哲治が監督に就任すると戦力構想から外れてしまった。
当時のNPBには自由に移籍することができる「A級10年制度」があり、与那嶺要はその権利を獲得していたが、巨人側は与那嶺要の希望を無視して自由契約を発表する。
ベストナイン7回受賞など、第2期巨人黄金時代を支えた与那嶺要であったが、球団としこりを残した形で1962年に中日へ移籍することになってしまった。
監督として巨人にリベンジを果たす
打倒・巨人に闘志を燃やし中日に入団した与那嶺要。しかし、36歳と選手としてピークを過ぎており、力の衰えは隠せなかった。中日には2年間在籍したが、思うようなプレーができず1962年に現役を引退し、コーチ就任が発表された。
その後、1972年に中日の監督に就任すると、新人監督での開幕連勝記録を達成し。1974年には古巣・巨人のV10を阻止して20年ぶりのリーグ優勝をもたらしている。
ちなみに日本IBMの社長を務め、三井住友銀行やセブン&アイ・ホールディングスの取締役を務めたポール与那嶺氏は与那嶺要の息子である。
公開日:2023.11.20