助っ人外国人列伝/阪神投手編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。
藤川球児、久保田智之と形成した「JFK」で17連勝!ジェフ・ウィリアムス
【投手2位】ジェフ・ウィリアムス
〈NPB通算データベース〉
・勝利 16勝
・敗戦 17敗
・ホールド 141
・セーブ 47
・防御率 2.18
サイドスロー転向が野球人生の転機に
投手編の第2位は、長い歴史を持つ阪神のなかで最強セットアッパーの呼び声が高いジェフ・ウィリアムス。虎が誇る最強のリリーフ陣・「JFK」の一角を担い、150キロを超えるストレートと左打者の背中から切れ込むような高速スライダーは記憶に新しい。
オーストラリア出身のウィリアムスは小学校の頃から野球を始め、アメリカのルイジアナ大学に進学。大学ウィリアムス4年生のときに全米大学リーグのナショナルチームに選出され、1996年のアトランタ五輪にオーストラリア代表として出場して日本戦で勝利するなど、当時から非凡な才能を発揮していた。
その後、ドジャースに入団したウィリアムスは、1999年にメジャー昇格を果たし、オーストラリア人で9人目のメジャーリーガーとなっている。
意外にもこの頃のウィリアムスは、オーバースローの投球スタイルであり、メジャーに定着できなかったことから2001年のシリーズ後半からサイドスローに転向。結果的にこのフォーム改造がウィリアムスを大きく飛躍させることになる。
7回にマウンドへ上がれば勝利は目前
2002年はドジャース傘下の3Aで28セーブをマークし、翌2003年に阪神入りする。開幕当初はセットアッパーを担ったが、チーム事情で急遽クローザーを務め、25セーブ、防御率1.54と抜群の安定感を見せ、チームのペナント制覇に大きく貢献した。
ダイエーとの日本シリーズでは、打者15人に対して被安打「0」、三振「9」と圧巻の投球を披露し、監督の王貞治も「そのピッチャーが出てくるのは嫌だ」とお手上げだったという。
オリンピックになるとより力を発揮するウィリアムスは、2004年のアテネ五輪でも大活躍する。準決勝の日本戦では1点差の場面でロングリリーフを任されたが、高橋由伸、中村紀洋、小笠原道大などの強打者を完全に抑え込み、オーストラリアを銀メダルに導いた。
アメリカ時代はくすぶっていたウィリアムスがここまで飛躍できたのは、やはりサイドスローの転向が大きい。そもそも左のサイドスロー投手が少なく、ウィリアムスはより外側からリリースするような投球のため、打者としては打者の視界の外から投げられる感覚といわれる。
さらにピッチャーが利き腕とは対角線上のコースに投げ込む投球、いわゆるクロスファイヤーで150キロ強のストレートやスライダーがくるため、どんな名打者でも一筋縄にはいかなかったのである。
そして、セットアッパー専任となって藤川球児、久保田智之と「JFK」を結成した2005年からは、ウィリアムスの無双状態はより強固なものとなった。
そのシーズンは5月15日の楽天戦から7月18日の横浜戦まで、JFKがそろい踏みの試合は17連勝を飾り、勢いに乗ったチームは3年ぶりのリーグ優勝を果たす。
この時期、7回が始まる時点で阪神リードでウィリアムスがマウンドに上がればほぼ負けることがなく、相手チームのファンが静まり返る光景がよく見られたものである。
メジャーの誘いを蹴って引退まで阪神一筋
このように絶対的なセットアッパーとして活躍したウィリアムスは、阪神在籍7年で141ホールド、防御率2.20とあまりにも頼りになる高成績を残した。
とくに圧巻だったのが2007年だ。前年のシーズンよりもリリース時の肘の高さを高くすることでストレートの球威が上がり、シーズン前半から4ヵ月以上も自責点「1」を守る完璧な投球を披露。
この活躍ぶりはアメリカにも伝わり、複数のメジャー球団からオファーが届いたが、チームへの愛情から残留を決断している。
2010年に引退した後は、翌年から現在まで阪神の駐米スカウトを務め、2023年のキャンプ訪問のために久しぶりの来日を果たした。このときにJFKの一角を担った現在二軍投手コーチを務める久保田と再会し、阪神公式YouTubeチャンネルで対談の様子が公開されている。
公開日:2024.01.24