プロ野球妄想年俸 斎藤雅樹編
第2回 ~平成の大エース編~
本サイトや雑誌「がっつり!プロ野球」(日本文芸社)でも好評を博した『球界のレジェンド、今なら年俸はいくら?』。かつて球界で大活躍した往年の名選手がもし、現在のプロ野球でプレーしていたら、その年俸はいかほどか……を勝手に想像するこの企画。
今回は1980年代後半~90年代に巨人のエースとして活躍した“平成”を代表する名投手・斎藤雅樹の第2回『平成の大エース編』をお届け!
2年連続の20勝マークで平成の大エースとなった斎藤雅樹
⚫︎斎藤雅樹/読売ジャイアンツ
プロ3年目の1985年に12勝を挙げ、ブレイクを果たした斎藤雅樹。しかし、翌年以降の3年間は我慢のシーズンを過ごすことになる。先発登板の機会に恵まれず、一軍、二軍を行ったり来たり。王貞治監督を含めた当時の首脳陣からはメンタルの弱さを指摘され「先発向きではない」とすら評されていたという。特に1987年は一軍登板わずか6試合、翌1988年も38試合に登板も先発はゼロ。完全に「リリーフの人」となりつつあった斎藤雅樹に劇的な変化が訪れたのが1989年だ。
この年から藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹にとってはプロ1年目にサイドスロー転向を提案してくれた恩師でもある。
藤田は斎藤雅樹の先発適性を見抜き、開幕から一貫して先発投手として起用。これに、斎藤雅樹は結果で応えた。中でも5月10日大洋戦から7月15日ヤクルト戦までに記録した『11試合連続完投勝利』は今もNPB歴代1位の記録として残っている。
投手分業制が当たり前となった現代、「先発完投」の時代は終わりを告げたと言っていい。その意味でも、この『11試合連続完投勝利』はおそらく、未来永劫破られない不滅の記録と言っていいだろう。
最終的にこの年の斎藤雅樹は30試合登板(すべて先発)で20勝7敗、防御率1.62をマーク。沢村賞、最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞と投手タイトルを総なめにした。ちなみに完投数は驚異の21。2023年のNPB最多完投は髙橋光成(西武)、東克樹(DeNA)、戸郷翔征(巨人)の4だったことからも、この数字の異常値ぶりは理解していただけるはずだ。
当時の斎藤雅樹は、100球を超えても球威が衰えず1試合130~150球は当たり前。強烈なタフネスぶりを発揮し「ミスター完投」と呼ばれ他球団から恐れられた。
『先発投手は100球メドで交代』が当たり前になった現代ではさすがにむずかしいだろうが、昭和・平成のエース投手のタフネスぶりには驚かされるばかりだ。
高卒7年目、24歳でシーズン20勝をマークした斎藤雅樹。当然ながら妄想年俸はさらに跳ね上がる。前年までの3年間、足踏みしたぶん妄想年俸は5500万円にとどまっていたが、ここは一気に1億円を飛び越えて年俸2億円とさせていただく。
そして翌1990年。斎藤雅樹は2年連続20勝をマークするなど、巨人のエースに君臨。完投数もリーグ最多19をマークし、沢村賞こそ逃したが最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞は2年連続で受賞。チームもリーグ連覇を果たして自身初のMVPを受賞している。
ちなみに、2年連続の20勝はこの年の斎藤雅樹を最後にNPBでは生まれていない。こうなると「もし、現在プレーしていたら」の年俸を算出するうえで参考にできる選手がいなくなってしまうが、本稿では倍増の4億円とさせていただいた。正直、5億、6億でも不思議ではない……という気もするが、事実上の大ブレイクから2年しか経過していない点も考慮した結果だ。
当時の巨人は斎藤雅樹に加えて桑田真澄、槙原寛己が「先発三本柱」として君臨。その中でも斎藤雅樹は「エース」としてチームを牽引する存在にまでのし上がり、チームを支え続けた。