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農民支配を確立した「屯田性」とは?【三国志】

Text:澄田 夢久

三国志の主役たちが続々登場

曹操危うし!だが、敵かたき役やくはそう簡単に死なぬ。曹操の急を知った典韋が二本の大鉄戟を振り回し、曹操を救出。夏侯惇の一隊も救援に駆けつけ、曹操はようやく窮地を脱したのである。年がまわり、興平元年(194)、劉備は、陶謙から再三にわたって徐州の統治を懇願されていたが、横奪の汚名を嫌って固辞し、徐州小しょう沛はい城の守備についていた。だが、陶謙の死去によって、止むを得ず徐州を譲り受けることになる。

これを兗州鄄城で知った曹操は、「劉備は手を汚さず徐州を手に入れおった。真っ先にあやつを殺し、陶謙の墓も暴いて死体を切り刻み、父の恨みを晴らしてくれん!」と瞋しん恚い するが、これを諌めたのが荀彧。「先の戦いで奪われた濮ぼく陽ようを、まず呂布から取り返すべき」と諫言したのだ。

興安二年(195)、曹操は、兗州濮陽の奪還に向かう。典韋、許褚を先鋒とした曹操軍は、勇猛のみで策のない呂布から濮陽を奪い返し、定陶の戦いで呂布を敗走させる。行き場を失った呂布は、此こ度たびは劉備の徐州に逃げ込むしかなかった。

長安にも異変が起きていた。同年三月、李傕と郭汜が争い、李傕が献帝を拉致する。が、献帝は隙をついて長安を脱出、安邑へ移ったのち洛陽を目指した。献帝が洛陽に入ったのは、建安元年(196)七月、丸一年の逃避行であった。

曹操は、献帝の洛陽帰着を知ると同時に、李傕・郭汜軍進撃の報を聞く。荀彧は、「天子を奉じて民の漢王朝復興の願いに添い、明公(曹操)の軍を義兵とすることこそ非常時の戦略でありましょう。諸侯に先を越されてはならない」と鼓舞する。

曹操は、ただちに夏侯惇を指揮官として洛陽へ向かわせた。戦いは夏侯惇が勝利し、さらに曹操本隊が戦闘に入ると、賊軍は壊滅。李傕、郭汜は大慌てで逃げ去り、もはや軍の再起もままならぬと山賊になってしまったというから可笑しい。

曹操は司隷校尉に任命され、尚書の政務を執ることになるが、灰燼となった洛陽の復興は難しいとみて遷都を断行、豫州の許に献帝を動座する。拠点を豫州に移した曹操は、農民支配を確立して権力基盤を盤石のものとするため、許都の周辺で「屯田制」を開始する。

その一方で、「劉備と呂布が手を組んで攻め寄せてくると手強い。阻止する手立てはないか」と荀彧に策を問う。荀彧は、「二虎競食の計」を建言。これは劉備と呂布を仲違いさせる計略だ。だが、これは劉備に見抜かれ失敗。

次の手は「駆虎呑狼の計」。袁術に、劉備が上奏して淮南に攻め寄せるとの虚報を流して出兵させ、劉備には詔を下して袁術を討伐させる。呂布はその隙に乗じて劉備を裏切るに違いない、というものだった。

劉備は、これも曹操の奸計と見抜くが、勅命には背けないと兵を起こすのである。

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 三国志』
著:澄田 夢久 監修:渡邉 義浩

シリーズ累計発行部数160万部突破の人気シリーズより、「三国志」について分かりやすく解説した一冊。魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する。また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い。英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!

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