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三国志きっての策士・諸葛亮【三国志】

Text:澄田 夢久

曹操の脅しに帰趨を迷う孫権

曹操が孫権に送った帰順勧告状とは、次のようなものであった。「天子の命により、近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗を南に向けたが、劉琮はなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍百万の軍勢を整えて、将軍(孫権)とお逢いし、呉の地で狩猟をいたそうと思う」

言葉遣いは丁寧ながらも、「水軍百万の軍勢」とか、「呉の地で狩猟をいたそう」というのは、曹操が孫権を軍勢で脅し、帰順して自分をもてなせということだ。

この勧告状に孫権陣営は揺れに揺れ、帰順派と戦闘派に真っ二つに割れた。帰順派は、張昭、秦松ら北来(黄河流域の北部出身)の名士だった。曹操は後漢の再興者だから、降伏したとしても、それは後漢朝廷に対するものという理屈である。

真っ向から反対したのは、魯粛だった。姓は魯、名は粛、字は子敬、徐州出身である。魯粛は、曹操と対抗するために劉備と同盟しようとし、劉備と諸葛亮の人物を見極めようと夏口に向かう。劉備も、孫権との連携を策していた諸葛亮を魯粛に同道させて呉郡へ送る。諸葛亮は、社稷(国家)の大計を顧みず、僻論を仕掛けて来る呉の群儒を相手に一歩も引かずに論破し、無礼を窘たしなめるのだ。

孫権は、諸葛亮の「交戦すべし」の道理に納得するも、帰順すべきか戦うべきか、左見右見と気持ちが定まらない。そこへ鄱は陽湖で水軍の調練中だった周瑜が馳せ戻り、激しい口調で「絶対交戦」を焚きつける。

周瑜が交戦を唱えたのは、諸葛亮の舌三寸にも拠っていた。呉郡には美人の誉れ高い「二喬」がいる。曹操はその二喬が欲しくて戦いを仕掛けてきたのだと煽る。二喬とは、姉が大喬、妹が小喬。姉は亡き孫策の妻で、妹は周瑜の妻であった。

関羽の両眼から滂沱と流れ落ちた涙。呻きながら「誓いに背いたりするものか」、腹は決まった。関羽は、曹操へ感謝と別れの手紙をしたため、賜った褒美の金銀に封印をして漢寿亭侯の印を掛け、二夫人を伴って従者らとともに去っていく。

周瑜は、証あかしを示せと詰め寄る。諸葛亮は、曹操が三男の曹植(当時の中国を代表する詩人)に、「銅雀台の賦」をつくらせた。その賦は、曹操が天子となり、二喬をわが物にするとの内容だと明かし、悠然と朗誦する。これを聴いて、怒らぬ者があろうか。周瑜は見事に諸葛亮の奇計にしてやられたのである。

周瑜は、「曹操は逆賊だ。北方の平定未だなく、馬騰や韓遂が曹操の後方を脅かす。いまは厳寒の季節で秣がない。中原の軍勢は水戦に不慣れなうえ、兵士は遠方から湿地の多い江東への長旅で疲れ果て、水や土地になじめず、病に罹る者が続出している」と読み解き、ゆえに曹操は多勢とはいえ、江東の食糧が充足している精兵に勝ちようはずがない、と見立てた。

かくして孫権の腹は決まった。腰刀を一閃させて卓子を切り割り、「開戦ぞ!向後、降伏を言うものは斬り捨てる」と断を下したのだった。

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 三国志』
著:澄田 夢久 監修:渡邉 義浩

シリーズ累計発行部数160万部突破の人気シリーズより、「三国志」について分かりやすく解説した一冊。魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する。また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い。英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!

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