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三冠王に選手兼監督「史上最強の捕手」野村克也の年俸は今ならいくら!?

球界のレジェンド今なら年俸はいくら?

今や1億円プレーヤーなど当たり前になった日本球界。もしも、昭和を代表するレジェンド選手たちが現在の日本球界でプレーしたら、いくら稼ぐのか!?妄想企画、スタート!

育成枠から三冠王に上りつめたレジェンド捕手

三冠王に選手兼監督「史上最強の捕手」:野村克也
【妄想生涯年俸】
105億7440万円
(年平均3億9164万円)

NPB通算安打、通算本塁打、通算打点という打撃主要3部門すべてで歴代2位の記録を持つ故・野村克也氏。南海の正捕手、さらには選手兼監督として、戦後初の三冠王にも輝いたレジェンドだ。若い野球ファンにとってはテレビで何かと「ボヤく」印象が強かったもしれないが、それこそ王貞治がいなかったら「日本が誇るホームラン王」といえば野村克也だったろう。そんな「ノムさん」がもし、現代プロ野球でプレーしていたら…。捕手としてずば抜けた実績を誇る歴代最強捕手に哀悼の意を表し、妄想年俸を、考察してみよう。野村克也は1954年、契約金ゼロ、年俸8万4000円のテスト生として南海(現ソフトバンク)に入団している。今でいえば、「育成枠」のようなものだ。そこで、本誌では1年目の野村克也の妄想年俸を育成選手の最低保証額、240万円に設定してみる。同年は1軍9試合に出場しているから、支配下登録されたという仮定のもと、翌年の年俸は500万円に。

しかし、2年目は一塁へのコンバートを経験し、1軍出場はゼロに終わったため、3年目の妄想年俸は微減の480万円に設定する。ここで、野村克也はプチブレイクを果たす。捕手に再コンバートされた1956年は129試合に出場し、打率.252、7本塁打。今のプロ野球で3年目の捕手がこの成績を残したら、立派な「打てる捕手」候補だ。年俸も約3倍増、1200万円でのぞむ4年目のシーズン。野村はついに覚醒する。132試合にフル出場し、打率.302、30本塁打(本塁打王)、94打点。実質、育成契約からわずか4年でこの成長。現ソフトバンクの正捕手、甲斐拓也も真っ青の数字で一気に球界を代表する捕手へと飛躍を遂げた。安想年俸も、一気に1億円!といきたいところだが、ここは育成出身で実績わずか2年ということもあり、8000万円に。翌1958~1959年はやや成績を落とすも「捕手」として考えれば減俸対象にはならないだろう。そして61年、29本塁打を放ち、野村は自身2度目のタイトルとなる本塁打王を獲得。ソフトバンクなら、ここは大盤振る舞いで年俸はほ倍増も夢ではない。この年から、野村克也の打棒は凄みを増し始め、1968年まで8年連続で本塁打王を獲得することになる。1962年には44本塁打、63年には当時の日本記録でもある52本塁打と、もはや「捕手」の枠を超えた日本を代表するスラッガー。


そんな全盛期に、野村克也は現在であれば国内FA権を取得する。当時の南海であれば、はっきり言って野村克也を引き留めるのは不可能。唯一の方法と言えば鶴岡一人監督による激しい引き留め策くらいしかなかったかもしれないが、これが現在のソフトバンクとなれば話は別だ。前年52本塁打の正捕手残留に、巨額オファーを提示するのは間違いない。本誌が算出した契約総額は、8年総額64億円。年平均8億円の超大型契約で、現実世界では松中信彦の7年総額45億円(出来高含む)を大幅に上回る金額。ここまでの誠意を見せれば、ノムさんも首を縦に振ってくれるだろう。ちなみに、「現実の世界」では1964年オフ、この年も41本塁打、115打点で3年連続二冠王に輝いた野村克也は、契約更改でなんと20%減額を提示されたという。理由は「去年より数字が下がっているから」。チームの日本一に貢献した二冠王の正捕手にまさかのダウン提示。当時のパ・リーグ、南海というチームだからこそのエピソードだろう。

もちろん、本誌妄想世界では野村克也の「雇い主」は太っ腹で知られるソフトバンクなので、そんな事件は起こらない。8年契約満了を迎える71年、さすがに全盛期は過ぎた感は否めないが、それでもまだまだ「強打の捕手」。ここは契約年数を少し短くして、3年総額18億円で再契約。それでもこの年、72年には自身最後の打撃タイトルとなる打点王(101打点)を獲得し、意地を見せるあたりはさすがだ。1974年にはレギュラー奪取後はじめて試合数が100試合を下回ったが、これは8年から務めた選手兼任監督の影響も強かったかもしれない。現在のプロ野球界は、巨額契約選手に対して大幅減俸もいとわないため、さすがにこの成績では前年6億円からの50%ダウンも致し方ないところ。野村克也は1977年を最後に南海のユニフォ
ームを脱ぐが、移籍先&その後の成績を見れば大幅減俸を飲まざるを得ないだろう。ちなみに、本企画では「兼任監督」の年俸は加味していないが、本人曰く、「監督の年俸と合わせたら、日本初の1億円プレーヤーは私」だったという。

 

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