助っ人外国人列伝/阪神投手編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。
日本のプロ野球で初めてシンカーとナックルを投げた!若林忠志
【投手番外編】若林忠志
〈NPB通算データベース〉
・勝利 237勝
・敗戦 144敗
・防御率 1.99
異色の経歴を持つ日系アメリカ人助っ人
現在でも虎ファンが声高々に合唱する『阪神タイガースの歌(通称・六甲おろし)』。番外編は戦前から歌い継がれているこの応援歌の誕生に関わり、設立直後の阪神のエースとして活躍した若林忠志を紹介する。
明治時代の終わりごろの1908年、父親の代にハワイに移民した日系2世として若林はオアフ島で生まれた。幼い頃から野球やフットボールに勤しんでいた若林は、1928年にハワイ大和軍のメンバーに選ばれて親善野球のために来日。
このときに好投に注目した法政大学の計らいで横浜の本牧中(現在の横浜高校)に入り、法政大学に進学する。もともとオーバースローの投手だった若林は、大学時代に肘と肩を痛めてサイドスローへの転向を余儀なくされた。だが、この転向が変化球とコーナーワークを磨くことにつながり、後の野球人生に大きく影響する。
当時の法大野球部は弱小だったが、若林はチームを3度のリーグ優勝に導く快投を見せている。
大学を卒業した若林は、1935年に日本コロムビアに入社し、社員として働きながら会社の実業団チームでプレーする。ちょうどこの年に職業野球の球団、すなわち現在のNPBの礎となる組織が設立され、若林は阪神に入団することになった。
プロ野球黎明期に7色の変化球が冴え渡る
プロ入り後の若林は、アンダースローから繰り出す7色の変化球と緩急自在な抜群の制球力で1年目が10勝、翌年は17勝を挙げていきなりチームの中心選手として活躍。
多彩な変化球のなかでとくにシンカーとナックルのキレ味が鋭く、当時の日本では誰も投げておらず、日本のプロ野球で初めて投げたのが若林だったという。
1937〜1938年は右肩を痛めて登板数が減ったが、1939年から完全復活を遂げて全盛期に入る。その成績はまさに圧巻だった。1939年が28勝、防御率1.09の成績で最優秀防御率と最優秀勝率に輝いたのを皮切りに、以降は2桁勝利9回、その内の6回が20勝以上と阪神の大黒柱として快投を続けた。
そして1942年からは選手兼監督となり、チームの采配を振るいながらプレーするようになる。
1944年は太平洋戦争の影響で35試合しか行われなかったが、なんと若林は31試合に登板。チーム勝利27勝のうちの22勝を若林が稼いで阪神を優勝に導き、最多勝、最優秀防御率、最優秀勝率、そしてMVPのタイトルを受賞する無双ぶりを見せた。
若林のストレートは速いわけではなく、奪三振率も高くない。いわゆる「打たせて取る」タイプの投手だが、ここまで勝てたのは思いのままのコースに投げ分けるコントロールの良さにほかならない。
低めに変化する7色の変化球が絶妙なコースに決まることで打者は凡打の山を築き、生涯3557回投げて打たれた本塁打はたったの69本。つまり、6試合に1本しか本塁打を打たれておらず、ほかの投手よりもコントロールが突出していることがわかるだろう。
なお、若林は背番号「18」を背負っていたが、入団当初は「4」をつける予定だった。しかし、「4」は縁起が悪いことから空番号の「18」を選び、若林が大活躍したことでエースナンバーが「18」が定着したといわれている。
プレー以外の部分でも球界に大きな影響を与えた
戦争の激化によってプロ野球は中断され、若林は水産関係の事業家に転身。戦後、プロ野球が再開されても事業を成功していた若林は復帰を拒否したが、チームメイトで戦地に何度も招集された藤村富美男が満身創痍で投げていることを知って復帰を決意する。
本格復帰した1947年の時点で若林は39歳となっていたが、老獪なピッチングで26勝を挙げて再びチームを優勝に導いた。39歳での20勝投手は最年長記録であり、自身2度目のMVPに輝いている。戦前と戦後の両方でMVPを獲得したのは、若林と川上哲治の二人しかいない。
その後も年齢を感じさせない活躍を見せた若林は、阪神在籍13年間で233勝を挙げており、この数字は阪神投手最多勝記録である。
ちなみに『阪神タイガースの歌』は、阪神入りする前の若林が日本コロムビアにいた縁で作曲家に依頼ことで生まれている。また、監督時代には現在でいうファンクラブの組織を発案したり、母校であるマッキンレー高校の校章をもとに虎のマークを作成し、球団が採用した経緯があった。
助っ人や監督としての功績だけではなく、こうしたプロ野球界への尽力が評価され、1964年に野球伝統入りを果たしている。
公開日:2024.01.13