樋越家の悲願
樋越優一 2015年度卒・ソフトバンク(2016-2018)
アメリカのケネディ家の〝三世代思考〟のようなものを何かで読んだことがある。簡単に言うと、父が叶わなかった夢を子供に託して……というような話だ。
樋越優一は私のひとり息子で「プロ野球選手にしたい」と育ててきた。名前も「優勝して一番になる」の意味が込められている。幼い頃から「プロ野球選手になれ!」「なりたい!」という会話は親子でよくしていた。
どこに行っても「樋越監督の息子」と扱われるのは彼にとって辛いことも多かったと思うし、いろんなことが彼にもあった。
北海道ではなく本州の千葉経済大学附属高校に行かせたのも様々な事情があった。 網走で生まれ、野球を始めてからは私の英才教育も受けていた。5歳には既にマシンでバッティング練習をしていたほどだ。中学に入っても軟式野球部で何本もホームランを打って活躍していた。しかし、その分、大会になると徹底して勝負を避けられた。1試合4四球という日もあったほどだった。
中学1年の夏だったか。ある試合で全て敬遠されてしまい、「ここにいたら野球が上手くならない」と言い始めた。「高校野球になったら本州とか行かせるから」と言ったのだけれど、田舎の大将のようになって生意気になっていたので、「じゃあ東京に行かせよう」という話になった。中学硬式野球の強豪・東練馬シニアは、ウチの黎明期から今もお世話になっている後援会長の四分一さんが理事を務められている。そこで、頼んで優一を練習に行かせたのだ。
私としては、もっと凄い奴らを見て「自分はまだまだ」と思って帰ってきて欲しかったのだが、そこでホームラン打ってしまった。そうなると今度は「どうしても行きたい」というので東京の中学校に転校して、野球は東練馬シニアですることになった。
その時のチームも強くて、3番に谷田成吾(元ENEOS)、4番に伊藤拓郎(元DeNA、現日本製鉄鹿島)がいて優一が5番で全国大会に出た。伊藤と一緒に帝京に行くはずだったのだが、その年に千葉経済大学附属が甲子園でベスト4まで勝ち上がった。帝京の前田監督も「お前の息子だし獲るよ」と言ってくれていたのだが、千葉経済の松本監督も関係は深かったので預けてもらうことにした。
シニアの公式戦がすべて終わったので、中学3年の秋にはもう一度網走の中学校に戻ってきて、再び同じ屋根の下で暮らす期間があった。私ほどではないが、ヤンチャだった優一も親元を離れて野球に打ち込み、心身ともに成長して帰ってきた。
高校では同級生に猪又弘樹という社会人野球の強豪・ENEOSまで行った捕手がいたのだが、最後の夏は彼がショートで優一が捕手に。いろんな大学に誘われるようになった。 本人は「法政に行きたい」という話だったのだが、私もいろいろと考えた。アマチュア最後の4年間は私が見てやるべきだと思い立った。東京の生活の方が本人は気に入っていたが、「4年間やってから、プロや社会人でまた都会に出ればいい」と説得した。
ただ、やはり「息子をえこひいきしている」と言われもない噂を立てられたことは何度もあった。優一の1つ上には池沢佑介という強豪・NTT東日本に進んだ捕手がいた(現在はマネージャー)。ある時、「自分が、自分が」いう気持ちが強すぎる池沢を見て、一度セカンドのポジションを体験させることにした。そこで優一を捕手にしたのだが、「息子を使いたいから池沢を外した」なんて言われたものだ。もちろん池沢には「1シーズンはセカンドのポジションから捕手の動きを見て、何が大切かを考えるんだ」という図もしっかり説明していた。そうすることで捕手としての資質を学んで欲しかったのだ。
優一も池沢が卒業すると、最後の学年は主将を務めるまでになった。捕手としては同期の渡部生夢という選手がいた。後に独立リーグに進むのだが、彼は玉井と一緒に旭川実業で甲子園にも出た経験のある良い選手だった。この2人の捕手を比較すると、渡部が右打ち、樋越が左打ちくらいの違いしかないほど実力が互角だった。そのため、相手投手の右左で起用を変えていた。最終的には樋越優一が正捕手・4番となった。ここでも、最終学年で息子を主将、4番、正捕手という大黒柱としたことで、様々な葛藤があったが、そのぶん厳しく接した。
その中で忘れられない出来事がある。彼の大学野球最後の秋季リーグだ。思うように勝率が上がらない中、函館大との一騎討ちにもつれ込んだ。この最終節の2戦目、優一が打てずに負ける結果となり、その日のミーティングで彼に対し私は厳しい言葉をかけた。この時、彼は監督である私に対して初めて不満を訴える態度を見せた。ミーティングでそんな態度をとるキャプテンを監督して使うことはできない。父子ということは関係なく、監督と選手として絶対許されることではない。彼の中に自分への歯痒さや悔しさが強くあっての態度だと理解はできても、チームとして、キャプテンとして、監督に対しては絶対あってはならない態度だったのだ。
翌日のプレーオフには、当然渡部を起用することになった。渡部は前々日の試合で指名打者として活躍し、力を出してくれてのプレーオフだったからこその起用だった。このことは、父子としては実に難しい部分ではあった。心情的には「学生野球最終の試合になるかもしれないから、使いたい」という親心もあったが、勝負の世界はそれほど甘くなく、そんなことが通るわけがない。
一方でこの時はコーチだった三垣が「お前、監督の言っている意味が分かるか?」と諭してくれて、試合前に本人が私に謝りに来た。結果として試合途中から優一を起用し、ヒット2本を打ち勝利した。たとえ接戦になり負けたとしても、渡部の起用に後悔はなく、周りも納得すると思っていた。親子で同じ組織にいることはとても難しいことで、傍から見ると、根拠のないえこひいきとか、特別扱いと映ってしまう。ごく普通に接していても、そのように見られるからこそ、厳しく接するしかない。それでも周りは納得しないことがあるのが事実だった。
彼が入部するとき、約束をしたことがある。「毎日の練習は最後まで残ってやること」「最後にグラウンドを出て寮に戻って来ること」「このチームで野球をやる限り、お前は俺の教え子であって、俺はお前の監督だ。父親としては話しかけるな」この4年間は完全に「父と息子」ではなく「監督と選手」だった。私も選手としてしか扱わなかったし、彼も常に監督と呼んでいた。実家にも一度も帰ってこなかった。年末年始も沖縄で、トレーナーとトレーニングをしたり皿洗いのアルバイトをしていた。ともに私の知り合いが運営していたので紹介してもらった。泊まるところはホテルなどではなく1500円くらいのところで「修行だ」と伝えた。
進路は社会人野球の大企業のチームからも内定をもらっていたが、プロ4球団ほどからも「どうしますか?」と興味を持っていただいていた。私としても「樋越家としての親子三世代での夢」があったし、ウチの母親が生きているうちにプロに行かせたい思いがあったので育成でもプロに行かせることにした。社会人のチームには直々に「申し訳ない」と謝りに行った。
プロ野球選手としての生活は3年で幕を閉じたが、彼はいろんな人に助けられた。今も球団でスタッフとして働いている。大学時代はキャプテンをやりながら荷造りだとかマネージャー的な役割もやっていた。それが引退後の今の仕事にも繋がっているかもしれない。引退した時に「プロの世界は大変だったろ?」と聞いたら、高校の時の方が大変だったようだ。練習試合などではどこの高校の監督からも「樋越さんの息子を」と呼ばれるらしく、そこでバットや革手袋をもらうのだが、それで周りからとやかく言われたようだ。「あれは辛かった。呼ばないでくれと思っていた」と当時を振り返っていた。
高校1年の時に1度夏に網走へ帰ってきたんだけど、10円ハゲが3つくらいできていた。妻は心配していたが、私としては「それくらい乗り越えないとプロは行けないから」と諭した。だが私の息子ということで相当苦労はしていたと思う。プロでは水が合ってみんなにも可愛がられたし、施設が良い分、大好きな野球を朝から晩までできて優一にとっては最高の環境だったそうだ。マシンがたくさんあるから打ちたい時に好きなだけ打てるし、トレーニングも進んでいる。野球がこれまでで一番打ち込める環境だった。
こうやって現役を終えてからも球団に置いてもらって、皆さんに可愛がっていただいているし、今は周東に岡本直也、中村亮太もソフトバンクでお世話になっており、あらためて縁の大切さを感じる。
出典:『東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方』著/樋越勉
『東農大オホーツク流 プロ野球選手の育て方』
著者:樋越勉
多くのプロ野球選手を輩出する北の最果て、北海道網走市にある東京農業大学オホーツクキャンパス野球部。恵まれた施設環境ではないにも関わらず、なぜ有力選手が育つのか⁉東農大学野球部のカリスマ、樋越監督の選手を見抜く眼力と、その育成術を紹介‼プロ野球選手の育て方、ドラフトへ送り込む手腕、練習環境の整え方などを、具体的に解説するプロ野球ファンや指導者必見の一冊。愛弟子の周東佑京のコメントも収録。
公開日:2022.02.27