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由規が高校時代、プロ入りを意識するキッカケとなった試合【元ヤクルト・楽天】

野球人生のターニング・ゲーム

仙台育英高校から2007年のドラフト1位で東京ヤクルトスワローズに入団。東北楽天ゴールデンイーグルスを経て、21年より埼玉武蔵ヒートベアーズに加入した由規投手。その人生のターニング・ゲームとなった試合に関して聞いた。(収録:2021年2月5日)

その答えは『アマ時代では、仙台育英高時代。高2(2006年)夏の宮城県大会の決勝戦。対東北高校との試合』であった。この決勝戦、延長15回を戦い0対0で勝負がつかず、翌日の再試合で仙台育英高が6対2と勝利している。

――なぜ、この2試合をターニング・ゲームとして選んだのですか?

由規選手:初めて「プロ野球選手になれるかも」と感じた試合が、この2試合なんです。僕にとって甲子園がかかった初めての試合。延長15回と再試合9回も含めて24回を一人で投げ抜きました。プロ野球選手以前に、何としても甲子園に出場したかったのですが、結果として甲子園に出場を決めることができ、また、そこで初めて「プロ野球選手になれるかもしれない」と意識しました。

――それまでは、プロはあまり意識していなかったのですか?

由規選手:仙台育英高校に入学して、投手は一度、諦めていたんです。中学生までは投手でしたが、高校入学後すぐに内野手に転向しました。その後、1年生の秋に投手に戻り、2年生の春に初めてエースナンバーを貰いました。

――入学してすぐに投手を諦めたのは、なぜですか?

由規選手:同学年に投手希望者が多く、周りのレベルの高さに自信を無くしてしまったのです。投手希望者で並んで投球したのですが、その時点で「自分は厳しいな・・・」と。そこで、佐々木(順一朗)監督(当時)に「野手で勝負したい」と伝えました。ただ、監督には「たまに投げることもあるだろうから、準備だけはしておくように」とは言われていましたが。

「何とか抑えなきゃ」無我夢中で投げた公式戦初先発

――1年生の秋に投手に戻ったワケは?

由規選手:佐々木監督に言われた通り、練習試合ではちょこちょこ投げていたんです。でも、球が速いわけでもなく、目立つ存在ではありませんでした。1年生の秋に公式戦初先発。その試合で0点に抑えたのが、再転向のキッカケです。その試合も相手は東北高校でした。

――仙台育英高とは長年のライバルですね。

由規選手:はい。その試合では「当たって砕けろ」じゃないですけど、久しぶりに投手として先発を言い渡されて、それを意気に感じて・・・。「何とか抑えなきゃ」と無我夢中で投げました。試合後、僕の球が以前よりかなり早くなっていることを指摘され、手応えも感じられたことから、そこから本格的にピッチャーの練習をしていくことになりました。

――球が急に早くなったんですか?

由規選手:それまでは130km/h程度だったのですが、試合後に「143km/h出ている」と言われました。自分でも信じられませんでしたけど、実際にほぼ完ぺきに抑えることが出来ていました。それが自信になって、また投手をやりたいなと思うようになったんです。

――急に球速が上がった原因に心当たりはあるのですか?

由規選手:1年生秋の時点では、投手用の練習を専門的にはしていませんでした。野手の練習としてノックも受け、バッティング練習もこなし、傍らで投手と同じくらいの量のランニングや投げ込みもしていました。練習量、特に投げ込みが多くなっていたのは事実ですね。そうやって、野手用と投手用で併用したのが、結果的に良かったのかと思います。

気力で投げぬいた甲子園への24イニング

――その1年生秋の東北高校戦で自信を得て、結果として実を結んだのが、プロ入りを意識するようになったという2年生夏の宮城県大会決勝戦だったのですね。その試合では、延長戦15回と再試合9回を完投。体力的にきつかったのでは?

由規選手:はい。特に再試合の始めは、感じたことのない疲れを感じていました。最初の試合で「15回までで決めたい」と思っていたのですが決まらず、再試合は全然球が走っていませんでした。ただ、勝てば甲子園出場が決まるので、「何としてでも抑えてやるぞ」という気持ちでマウンドに立っていました。
実際に投げ終えた時は、疲れも甲子園出場の喜びで吹き飛びました。なので、2試合投げ終えた時の疲れは、1試合目よりはるかに軽かったのは、よく覚えていますね。