物理学的には新記録が達成可能
「100m競争は陸上の花」と言ってもいいでしょう。人体躍動の筋肉が余力なく爆発しているようです。では100m記録はボルトの9秒58が限界か、となるとそうとは言えません。物理学の原理と発想で、記録更新はまだまだ望めるからです。そこで記録更新を視野に、改善余地のあるスタートから加速しているときの前傾姿勢について考えてみましょう。
接地している足を中心に体を傾けると、傾けた方向に倒れますね。これはヘソのあたりにある重心が接地した足の位置より前に出たため、❶の位置関係では反時計方向のモーメント(*1)が体をさらに傾ける方向(❶のW)に作用するためです。この状況で倒れないように体の傾きを維持するには、倒れる方向と逆方向すなわち時計方向のモーメント(❶のT)がかかるようにします。
例えばロープを掛けて誰かに引っ張ってもらう、強い風で押してもらうなどが直接的な力を利用する方法です。しかし、加速をして走ることで慣性力がかかるようにするのがスマートな方法でしょう。動き始めの電車で体が進行方向と逆方向に受ける力のことです。物理では倒立振子(*2)で倒れないようにするための加速と同じ原理です。ちなみに、これを利用した乗り物が「セグウェイ」です。
さて、重心における体重および慣性力の体の軸に対する垂直成分の釣り合い関係をみてみると、角度αは重力加速度g[m/s²]と走りの加速度a[m/s²](g:重力 a:加速度)との比から、
α=tan⁻¹(g/a)
と表わされます。つまり、体を傾ける角度は体重とは無関係に自分がほしい加速度だけで決まりま
す。仮にa=6.86m/s²の加速度でスタートを切るとき体の傾きはα=tan⁻¹(9.8/6.86)=55°となります。この加速度で1・75秒間加速すると、速度は12m/sとなります。この間10.5m進みます。
残りの100–10.5=89.5mをこの最大速度を維持したまま走ると、89.5÷12=7.46秒かかりますので、❷のように加速にかけた時間と合わせると、1.75+7.46=9.21秒というタイムを出せます。
記録を更新するためには、加速度を上げ、短い時間で最大速度に到達させ、それを維持して走ること。加速度を上げるには体をもっと傾けること。物理学的にはこれで新記録が達成可能となるのです。
*1 モーメント:腕の長さ×力。単位はNm(ニュートンメートル)。エネルギーの単
位ジュールと同じことから、回転エネルギーといっても良い。
*2 倒立振子:普通の振子は頭を支点に振れる(安定)が、倒立振子は足元が支点と
なる。当然傾くと傾いた方向に倒れてしまう(不安定)ので制御が必要。
【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 物理でわかるスポーツの話』
著:望月修
シリーズ累計発行部数130万部突破!「100メートル走で人類の限界は9秒21?」「サッカーでコーナーキックをうまく決めるヘディングの角度とは?」「巨漢力士はテコの原理で持ち上げろ!」「走り幅跳びで観客の手拍子は果たしてプラスに働くのか?」「バスケで3点シュートを決める方法」「スキージャンプ、究極のムササビ飛行?」「理想的な泳ぎ方とは?」ーー全44のスポーツ、運動を物理で読み解く。スポーツの見方が変わる!記録がのびる、勝てる方法がわかる!そして観戦が100倍楽しくなる1冊!
公開日:2020.08.01