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曹操が青州兵を自軍に組み込む【三国志】

Text:澄田 夢久

袁紹は河北四州を手に入れる

初平三年(192)は、王允が討たれ、孫堅が死に、曹操は兗州で黄巾賊の残党を平定して青州兵を組織した。また、袁紹が「界橋の戦い」で公孫瓚を破った。

固辞した袁紹も、最後には承諾し、「わが弟の袁術には軍糧と秣を諸侯に遺漏なきように手配してもらおう。それと誰か一人、汜水関に先行して董卓軍と立ち向かってもらいたい。

やがて、群雄レースは、けざやかに袁紹と曹操に収斂していき、建安五年(200)、両雄並び立たず「白馬の戦い」、「官渡の戦い」で雌雄を決することになる。わが国で言えば、さしずめ「関ヶ原の戦い」といったところか。それまでの八年の動きを見ていこう。

孫堅が討たれたとき、長子孫策は十七歳。孫策は父の死後、袁術に身を預けていたが、袁術は孫策から「伝国の玉璽」を騙し取る奸佞ぶり。曹操はそんな袁術を評して、「冢中の枯骨(墓の中の枯れた骨)」と嘲笑う。

袁術は、字を公路と言い、司空の袁逢の嫡子。同じ父を持つ袁紹は庶出だが、声望は袁術の比ではない。そんな袁紹に対して強烈な妬心を抱く袁術は、たびたび袁紹の出自の低さを俎上に上げる量さ。ゆえに袁術と袁紹は不和となっていた。

その袁術は、初平四年(193)、曹操との「匡亭の戦い」で大敗。拠点の南陽郡を捨て、揚州へと逃げ去るのである。

軍糧不足の孫堅が華雄の奇襲で一敗したことを知らされると、袁紹ら諸侯は声を失った。劉備、後ろに控える関羽、張飛はそんな諸侯らの狼狽を冷ややかに見てこのころの曹操陣営の充実ぶりを見てみよう。まず、袁紹に見切りをつけた名士の荀攸、甥の荀攸が曹操のもとへ身を寄せ、荀彧の推挽などで程てい昱いく、郭嘉(字は奉孝)、劉曄(字は子陽)らの名士が仕えることになる。武将もしかり。于禁、典韋 、遅れて許褚らが参集し、曹操の傘下には智臣、猛将が名を連ね、威勢は山東地方を圧したのである。

だが、曹嵩が、曹操の招きで徐州を通り過ぎるとき、州牧の陶謙から護衛を命じられた張闓に殺されるという不慮の事件が起こった。曹嵩は曹操の実父、曹操は復讐に燃え、陶謙を討たんと出兵し、陶謙が支配する徐州に進軍する。軍勢で到底敵わぬ陶謙は、青州刺史の孔融に援軍を乞う。孔融(字は文挙)は、孔子二十世、文才高く、のちの「建安の七子」の一人だ。

孔融は、陶謙との交流があったことで援軍を承諾し、そのうえで青州平原の国相・劉備にも助軍を要請。劉備らは三千の兵を引き連れて孔融陣営に参陣、徐州へ赴いて陶謙軍の防備を厚くする。

曹操は、徐州の民を殺戮し尽くした。恨みに感情の歯止めが利かなくなっていたのだ。そんな折に、兗州名士の陳宮が張邈を焚きつけ、張邈に身を寄せていた呂布を引き入れて、曹操打倒の旗を揚げさせる。呂布は長安を脱けたのち、袁術、袁紹、張楊を頼り、このときは張邈に身を預けていたのである。

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 三国志』
著:澄田 夢久 監修:渡邉 義浩

シリーズ累計発行部数160万部突破の人気シリーズより、「三国志」について分かりやすく解説した一冊。魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する。また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い。英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!

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