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朝倉孝景は、なぜ東軍に寝返ったのか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

守護と守護代を破り、家老から戦国大名へ

戦乱長期化の最大の要因は戦力の拮抗にある。東軍としては、瀬戸内海の制海権を巡り、細川勝元と競合関係にある大内政弘(まさひろ)は無理でも、朝倉孝景(あさくらたかかげ)なら寝返る可能性があると睨(にら)んでいた。孝景は越前(えちぜん)守護斯波義廉(よしかど)の家臣で、在京斯波軍の実質上の総司令官でもあった。

朝倉氏の先祖はもともと日下部(くさかべ)氏を称し、平安時代末期に但馬国(たじまのくに)朝倉に居住したことから、新たに朝倉を姓とした。南北朝時代、斯波広景(ひろかげ)が足利尊氏配下の斯波高経(たかつね)に臣従して越前に出征。目代(もくだい)として坂井郡黒丸(くろまる)城に配置されたのをきっかけに、同郡、次いで足羽(あすわ)郡を拠点に着々と力をつけていった。

室町時代の守護大名は在京が基本であったことから、応仁・文明の乱発生時に朝倉氏当主であった孝景も、家督相続後の大半を斯波義廉の補佐役兼護衛として京都で過ごしていた。

ときに斯波氏は越前・遠江(とおとうみ)・尾張(おわり)3カ国の守護を兼ねていたが、享徳元(1452)年に嫡系(ちゃくけい)の斯波義健(よしたけ)が嗣子(しし)のないまま没してからは内紛が絶えず、応仁・文明の乱が始まってからも、越前一国に限れば、東軍方の斯波義敏(よしとし)が優勢であったから、朝倉孝景が東軍からの誘いを無視するはずはなかった。

だが、孝景は守護代を跳び越え、一気に守護職になりたいという条件をつけた。東軍「後日必ず」と答えたことで、孝景は誘いを受けれた。

かくして、孝景が寝返ったことで東軍の優勢は明らかとなり、西軍内部でも和議の機運が高まるのだった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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