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織田信長が岐阜城を居城にしていた時期に使い始めた「天下布武」の意味とは?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

将軍の命のもとで行なわれた天下布武

信長の偉才は軍事に限らず、那古野(なごの)、清須(きよす)、小牧山(こまきやま)、岐阜(ぎふ)、安土(あづち)という居城の変遷からもはっきりと見て取ることができる。

尾張時代の那古野・清須両城はまだ守護館の域を出ず、重臣たちもそれぞれの地盤で同規模の館を構えていた。重臣たちの自立性は高く、権力の集中が中途半端であったことを物語っている。

これに対して小牧山・岐阜両城は君臣の別がはっきりわかる造りであった。

家臣団は城下の指定の場所に住むよう義務づけられ、地方へ赴任する際には家族を留めおくこととされた。各屋敷から山麓の城門までの距離は織田家中での地位に比例したことから、序列や上下関係も一目瞭然となった。

安土城の段階ではそれがさらに顕著となる。

信長が「天下布武(ふぶ)」という言葉を使い始めたのが岐阜城を居城にしていた時期である。

近年の研究によれば、当時でいう「天下」は「全国」の意味ではなく、京都を包摂する山城国(やましろのくに)とその周辺地域、すなわち畿内とほぼ同義語だった。

武力によって将軍足利義昭の帰京を助け、将軍の命のもと畿内の秩序の回復を図る。

それが「天下布武」の意味するところで、続いて掲げられた「天下静謐(せいひつ)」は畿内の平穏の維持を意味する。この平穏を乱す者の討伐は正義の戦いというのが、信長の論理であった。

とはいえ、何をするにも先立つものが必要であった。通常であれば税に頼るところであるが、信長は徴税よりも富める者の献金に期待した。献金の額に不満なときは、「矢銭(やせん)」の名目で取り立てていた。信長が入洛したとき、摂津(せっつ)・和泉(いずみ)に矢銭をかけ、堺に2万貫、大坂本願寺に5000貫を課したことは有名な話である。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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