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斎藤道三は、油売りから戦国大名になったって本当?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

父子二代がかりの国盗りだった

美濃(みの)の斎藤道三(さいとうどうさん)は下剋上(げこくじょう)を地でいったとされる戦国大名だが、「六角承禎条書写(ろっかくじょうていじょうしょうつし)」という古文書によれば、道長三による国盗りは、父・長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)との2代がかりで行なわれた。

それによれば、道三の父は本来の姓は西村で、京都の妙覚寺で修行した後に還俗して美濃へ下り、長井弥二郎(よじろう)という人のところへ出入りするうち、自身も長井新左衛門尉と名乗るようになった。

また江戸時代はじめに編纂された随筆『老人雑話』には、道三の父は山崎の油商で、夫婦で美濃にやってきたところで道三が生まれたとある。

道三自身の名がはじめて文書で確認できるのは、新左衛門尉が亡くなった天文2(1533)年のこと。その時点では長井新九郎規秀(しんくろうのりひで)と名乗っていた。

父が長井惣領家(そうりょうけ) を奪ったのに続いて、道三が守護代家だった斎藤家を乗っ取り、姓名を斎藤利政(としまさ)と改めた。同21(1552)年には守の土岐頼芸(ときよりのり)を追い出し、美濃の国盗りを成功させた。しかし、新参者であることから、美濃の国衆(国人領主)には面従腹背(めんじゅうふくはい)の者も多く、のちに道三と嫡男・義龍(よしたつ)の間に対立が講じたとき、彼らを義龍のもとに結集させることになった。

父子間に深刻な対立が生じた一因として、尾張との同盟が考えられる。尾張と駿河の二方面に軍を分けたのでは不利を免れず、より強大な今川軍を封じるには、尾張と同盟を結ぶしかない。そのため愛娘を織田信秀(のぶひで)の嫡男・信長に嫁がせたのだが、義龍は信長をまったく評価していなかったようである。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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