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武田信玄の「武田騎馬団」は本当に存在した?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

馬は主に移動と運搬の道具だった

戦国時代は肉親といえども油断きず、甲斐(かい) の武田信玄(たけだしんげん)も父・信虎(のぶとら)を国外へ追放し、嫡男・義信(よしのぶ)を幽閉という非情な措置に出ている。

信虎は武田一族と甲斐一国の統一を成し遂げ、甲斐武田氏を戦国大名に仲間入りさせた功労者だが、天文10(1541)年、今川義元に嫁いだ娘の顔を見ようと駿河を訪れたところ、嫡男の信玄に国境を封鎖され、甲斐へ戻れなくなった。

信玄と重臣たち共謀による政変である。動機としては、信虎の「悪逆無道(あくぎゃくむどう)」が挙げられることが多いが、実際は外征の度が過ぎて、甲斐国全体が疲弊(ひへい)していたことと関係しよう。不平不満が積もりに積もったところへ、信玄が家督を継ぐに十分な年齢に達し、信虎の留守という思わぬ好機が到来したことから、政変に及んだのではあるまいか。

一方の嫡男・義信を盟主とする政変計画が発覚したのは永禄8(1565)年のこと。中心人物と目された飯富虎昌(おぶとらまさ)は粛清、義信は幽閉された。今川義元の娘を正室に迎えていたことから、義信には信玄の進める織田信長との同盟が受け入れられず、計画に加担したものと考えられる。

信玄は、たとえ肉親であっても非情な手段に出ることのできる人物であった。その厳しさは戦にも示され、信虎ほどではないにしろ、信玄の生涯も合戦の連続であった。

ただし、俗にいう「武田騎馬軍団」というのは後世の創作で、武田軍の主力が騎兵であったことはなく、騎兵による敵陣の蹂躙(じゅうりん)なども皆無であった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


「織田信長の桶狭間の戦いの勝利は、奇襲ではなく、徹底した情報収集と天の恵みのおかげだった」「徳川家康は自らの意思で正室と嫡男を殺した」「毛利元就の遺訓、三本の矢は後世の創作」従来の通説をくつがえす戦国史の新説をたっぷり検証!人気戦国武将52人の意外な素顔と戦いがわかる!戦乱の世を苛烈に生き抜いた、個性的で魅力あふれる戦国武将たち。信長、秀吉、家康の三英傑をはじめ、北条早雲、今川義元、武田信玄、上杉謙信、明智光秀、竹中半兵衛、黒田如水……。日本史に名を刻んだ戦国の武将たちの真実と魅力を、最新研究で徹底解説します。さらに戦国史研究の第一人者、小和田哲男が、先見性、企画力、統率力、実行力、教養、5つのポイントから真の実力を判定。

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