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松永久秀は、戦国時代を代表する梟雄(きょうゆう)だった?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

将軍殺しも主家への背反も火付けも濡れ衣だった

将軍を殺(あや)め、主家に背き、大仏殿に火をかける。松永久秀(ひさひで)は3つとも平然とやってのけたとされ、戦国時代を代表する梟雄(きょうゆう=残忍で勇猛なこと)扱いされる。しかし、実のところの久秀「三悪」とされるものはすべて冤罪(えんざい)である。

久秀は三好長慶(みよしながよし)に仕えて頭角を現わし、長慶の死後、三好三人衆と戦いを繰り広げるなか、上洛する織田信長に帰順する道を選んだ。彼の「三悪」とされるのはすべて、長慶の晩年から信長の上洛までに起きた出来事を指している。

まずは13代将軍足利義輝(よしてる)の殺害だが、これには嫡男・久通(ひさみち)は参加していたが、すでに家督を譲っていた久秀は関知していなかった。次に長慶の嫡男・義興の死は久秀による毒殺で、愛息の早すぎる死が長慶の寿命を縮めたとの説があるが、これには確証がなく、風聞(ふうぶん)域のを出ない。大仏殿の焼亡は三好三人衆と戦うなかで起きたもので、少なくとも松永側が故意につけた火ではなかった。

久秀が信長に臣従(しんじゅう)したのはあくまで一つの手段で、一時の宿り木に過ぎなかった。その証拠に信長包囲網が厳しくなったとみるや、たちまち反旗を翻(ひるがえ)し、反信長陣営の最大勢力であった武田信玄の死去を知ると、ただちに矛(ほこ)を収めている。

能力を買われていたからこそ信長から1度は許されたが、2度目があるとは思えず、『多聞院(たもんいん)日記』によれば、久秀は敗北が明らかになったとき、信長も所望した茶釜の名器「平蜘蛛(ひらぐも)」を叩き割った上で、信貴山(しぎさん)城の天守で自害したという。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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