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浅井長政は、なぜ織田信長との同盟を破棄したか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

足利義昭からの密命があったという説が浮上

織田信長が岐阜城から上洛するには近江(おうみ)国を横断する必要があり、このとき南近江の六角(ろっかく)氏が敵対したのに対して、北近江の浅井(あざい)氏は全面的に協力した。浅井氏3代目当主の長政(ながまさ)が長信の妹・お市(いち)を正室に迎えることで、義理の兄弟となっていたからである。

北近江の本来の守護は四職(ししき)の一つの京極氏で、浅井氏は国衆の一人に過ぎなかったが、長政の祖父・亮政(すけまさ)のとき、国人一揆の盟主に擁立されて実権を掌握。だが、父・久政(ひさまさ)のときには六角氏の家臣に甘んじ、長政は六角氏の重臣平井定武(ひらいさだたけ)の娘と結婚させられた上、六角定頼(さだより)の子・義賢(よしかた)「承禎(じょうてい)」から「賢」の字を押し付けられ、当初は賢政(かたまさ)と名乗っていた。

六角氏への従属に不満な家臣は多く、長政は彼らの支持を背景に政変を敢行。当主の座につくと、名を長政と改め、平井の娘とも離縁し、六角氏の討伐軍を撃退して、北近江郡から犬上(いぬかみ)・愛智(えち)両郡にまで版図を拡げ、戦国大名への仲間入りを果たした。そこへ信長上洛の風聞を耳にして、同盟を結ぶ運びとなったのである。

しかし、浅井・織田同盟は長続きせず、元亀元(1570)年、越前(えちぜん)攻めを始めた信長の背を浅井軍が突こうとしたことで終焉(しゅうえん)する。自ら出陣したわけではないが、長政の命令によることは間違いなく、同盟破棄の理由としては、朝倉氏との旧誼(きゅうぎ)を重んじたからと説明されることが多い。しかし、最近では足利義昭の密命によるとの説が浮上している。

何が動機にしろ、これ以降、長政と信長の関係が修復されることはなかった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


「織田信長の桶狭間の戦いの勝利は、奇襲ではなく、徹底した情報収集と天の恵みのおかげだった」「徳川家康は自らの意思で正室と嫡男を殺した」「毛利元就の遺訓、三本の矢は後世の創作」従来の通説をくつがえす戦国史の新説をたっぷり検証!人気戦国武将52人の意外な素顔と戦いがわかる!戦乱の世を苛烈に生き抜いた、個性的で魅力あふれる戦国武将たち。信長、秀吉、家康の三英傑をはじめ、北条早雲、今川義元、武田信玄、上杉謙信、明智光秀、竹中半兵衛、黒田如水……。日本史に名を刻んだ戦国の武将たちの真実と魅力を、最新研究で徹底解説します。さらに戦国史研究の第一人者、小和田哲男が、先見性、企画力、統率力、実行力、教養、5つのポイントから真の実力を判定。

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