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武田勝頼の「長篠・設楽原の戦い」の敗因は「三段撃ち」?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

「三段撃ち」はなく、鉄砲・弓矢の雨に敗れた

武田勝頼(たけだかつより)は信玄の四男。名前に「信」の字が付かないのを見れば明らかなように、元服時には後継者の有力候補とは目されていなかった。

勝頼は諏訪(すわ)大社の神主を兼ねる諏訪氏を継ぐ者として育てられた。運命の急変は、信玄の嫡男・義信(よしのぶ)が謀反(むほん)の罪により廃嫡(はいちゃく)されたことによる。二男は目が見えず、三男は10歳で夭折(ようせつ)していたことから、四男・勝頼にお鉢が巡ってきたのである。

江戸時代初期に編纂(へんさん)された軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、武田信玄は長大な遺言を残しており、事後の戦略としては、合戦に耽(ふけ)ることなく、信長・家康の命運の尽きるのを待つこと。信長が侵攻してきた際には難所に陣を張って持久戦に持ち込み、家康が侵攻してきた際には駿河国内まで引き込んでから討ち取るよう指示していた。決して自分から他国に侵攻してはならないとしたのである。

けれども、勝頼は専守防衛の原則を守らず、信玄の死から2年後、対外積極策に転じた途端、三河の長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)で大敗を喫した。

織田・徳川軍による鉄砲三段撃ちは後世の創作で、実際には3人1組による間断(かんだん)ない連射だったようだ。しかし、鉄砲による火力以前に、武田軍は兵の数で大きく劣る上に、長篠城を攻め落とせず、前後挟撃(きょうげき)される不利な状況に置かれていた。決戦を挑まず、撤退するべき局面だったのである。

この敗北により、勝頼は領内の守りを強化する必要に迫られ、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とは比較にならない堅固な城郭の建造に着手するのだった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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