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関羽は二夫人を護って曹操に降る【三国志】

Text:澄田 夢久

劉備は袁紹のもとへ逃げ込む

さて、建安四年(199)末の群雄はどんな消長を呈していたのであろうか。すでに表舞台から姿を消していたのは、劉虞、公孫瓚、韓馥、張楊、劉岱、陶謙、呂布、袁術、劉繇だった。公孫瓚は、袁紹としばしば軍陣を合わせていたが、建安四年に大敗。自刎している。

残った群雄は、袁紹、曹操、涼州の馬騰、荊州の劉表、益州漢中の張魯、益州の劉璋、揚州の孫策、領土を持たない劉備ぐらいである。その中で強大なのは、公孫瓚を滅ぼして、冀州、青州、幽州、并州の河北を手中に収めた袁紹。徐州、兗州、豫州を手にした曹操だった。

といっても、軍事力の差は歴然と袁紹が随一を誇っていた。建安四年の段階では、袁紹は曹操を圧倒していたのだ。

時に劉備は、二年前に曹操に敗れた袁術が、建安四年に冀州の袁紹を頼って逃れんとしたとき、曹操の命によって徐州で阻止した。袁術は失意のうちに病死。劉備は徐州にとどまったが、曹操に、叛逆を知られたため攻撃されることを懸念。窮余の一策で、救援を乞う書状を袁紹へ送った。

袁紹は、「劉備は弟袁術に仇を為した奴だ。本来なら書状など破り捨てておけばいいが、曹操が朝廷を壟断しているのは見過ごせない。ここは劉備を助けるに如くはあるまい」と、記室(書記)の陳琳に命じて、曹操弾劾の檄文をつくらせた。陳琳の「曹操は悪辣非道、譎詐に満ち溢れている」と誇張、末文での「天子が曹操に拘禁の憂き目に遭っている」との内容に袁紹は大いに満足。いたるところで掲示するよう指示し、官渡に出兵していった。

劉繇との一戦は、張昭の策が当たり、孫策の大勝に終わった。破竹の勢いの孫策は、一連の戦いによって長江下流域の江東地方を手に入れていくことになる。孫策は、各所に部将を配置して要害を守らせ許都の朝廷へ上申して曹操と誼よしみを結ぶ。袁術には復命して玉璽の返却を要請したが、袁術は無視。

曹操は、この檄文を読むや、文章の見事さに感嘆する。曹操の広量さだが、それはそれとして、曹操自ら二十万の大軍を率いて徐州へ出陣する。曹操不在に官渡から許都をうかがうかもしれぬ袁紹が不安だったが、郭嘉の「袁紹はグズで、参謀もいがみ合っているので、心配は杞憂」との分析で、劉備討伐を決意したのである。

曹操に攻撃された劉備は、敵かなうわけもなく、散々に撃ち破られ、張飛や部下とも離散して劉備は単騎、袁紹のもとへ逃げ込んだ。

この戦いでは、関羽が下邳城に劉備の二夫人(甘夫人、糜夫人)を護まもって死守していた。曹操は、関羽の武勇と義にことのほか思い入れがある。なんとか降伏させられないかと諸臣に諮った。以前に関羽の命乞いで助命された張遼が説得を任され、下邳城へ出向く。

関羽は、張遼の説得に「自分は曹操ではなく、漢の皇帝に降伏する。義姉上がたを丁重に扱って欲しい。義兄の行方がわかりしだい辞去する」の三つを降伏条件にする。これを受け入れた曹操の度量は大したものだった。

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 三国志』
著:澄田 夢久 監修:渡邉 義浩

シリーズ累計発行部数160万部突破の人気シリーズより、「三国志」について分かりやすく解説した一冊。魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する。また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い。英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!