高校3年生のとき、女子サッカー大国であるアメリカへの留学を決めました。当時はセンターバックとして年代別代表に選出されていましたが、保守的な自分を変えたいというのが理由でした。武者修行を経て、選手、いづれは指導者として女子サッカーに貢献する。当時の思考は至ってシンプルでしたが、「社会とスポーツ」というものはもっと複雑で、もっとおもしろいということを教えてくれたのがアメリカ留学でした。
元々はスポーツサイエンス学部に所属していましたが、3学年時に「Body, Mind, Media and Sports」というオリジナルの専攻をつくりました。スポーツサイエンス、心理学、メディア学、スポーツ社会学、スポーツビジネスに関わる全ての授業を片っ端から受けようというのが目的でした。あれもこれもと欲張ったプログラムなので、一つ一つを根深く掘り下げるところまではできませんでしたが、選手としての立ち位置から見てきたスポーツの世界は急激に広がりました。
継続性を担保するビジネス思考、政治的利用を避けられないスポーツの社会性、情報操作社会における生き残り方、ただ技術や戦術を教えるのでなはく人をみる指導論。どれも刺激的で、学校の外での体験も含めたアメリカ留学からは「社会がスポーツを育て、スポーツが社会を育てる」そんな図式を感じました。
大学を卒業後、半年のリハビリ期間を経て、シカゴでプロトライアウトを受けました。100名を超える参加選手の中で無事最終メンバーには残ったのですが、最初に呼ばれた面談で監督に言われた一言目が「二重国籍だったりする?」その瞬間、外国籍の枠が埋まってるんだなと察しがつきました。チームとしては来てほしいから環境は整えるけど、契約に関しては難しいということで、それならと、元々興味のあったブンデスリーグ挑戦を決めました。
トライアウトの予定などなにも決まらないままドイツに入国したものの、入国して2週間ほどでMSV Duisburgと契約。初めてのプロリーグで「ドイツではこうする、プロでそんなプレーは通用しない」という色々な声を素直に聞いてしまって萎縮してしまいましたが、学生とはまた違う強度やプレッシャーの中での戦いそのものはとても楽しかったです。また、アメリカのお祭り的な盛り上がりとはまた違う、ヨーロッパ特有の誇りをかけた戦いや応援も好きでした。
2シーズン目への提示は、後に日本でいただく契約の2倍に近い金額プラス家と車はチーム持ちという内容で、仲のよかったチームメイトにも1年目の成績を考えると破格の提示だと言われました。しかし、最終的に決断したのは日本への帰国。2020年の東京五輪がすでに決まっており、企業の目がスポーツに向いている「いま」だと感じたからでした。蓋を開けてみると、クラブとの関係でうまく動けなかったり、ようやく自由になれたと思ったタイミングでのコロナ禍だったりと散々でしたが、数えきれないほどの学びは残っています。
世界をみると社会的ムーブメントになっている国もありますが、やはり男子サッカーとの区別下の鍵は女子サッカーが持つ社会的メッセージ性だと感じています。「女子サッカーをアイコンとしたより良い社会つくり」そのためにはより当事者意識を持っている人たちが中心となっていくべきですし、そうならない限り、女子プロサッカーとしての存続はなかなか難しいのではないでしょうか。