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苦難の連続を物ともしないで優勝した1974年のロッテオリオンズを襲った苦難とは!?

Text:安東渉

あの頃はマジで最強だったなぁ……というファンの心を揺さぶれ!あの球団の黄金時代

●1974年のロッテオリオンズ
長いプロ野球の歴史の中で、どの球団にもある“黄金時代”。今回は現・千葉ロッテマリーンズの前身である、ロッテオリオンズが最も輝いた、1974年をフラッシュバックする。

1974年成績:130試合
69勝50敗11分(前期2位/後期1位/PO優勝)
打率.265 本塁打114 防御率3.18
監督:金田正一
日本シリーズ結果(対中日):4勝2敗(日本一)

過酷な移動やトラブルなど苦難の連続を乗り越えて

特定の本拠地を持たず、首都圏と宮城県仙台市で主催公式戦を行っていた“ジプシー・ロッテ”である当時のロッテオリオンズは、シーズン中常に移動を繰り返さなければならなかった。リーグ制覇を目指すチームにとって、この過酷な移動は大きな足かせと言ってもいいだろう。球団の事務所、合宿所は前身の東京オリオンズ時代から継続して東京都内に置き、首都圏での試合は東京近郊の自宅から、仙台でのホームゲームはホテルに宿泊するという生活は、チーム全体を疲弊させたに違いない。

当時のパ・リーグでは、東京を本拠地とする日拓(現・北海道日本ハムファイターズ)以外、関西で3球団、九州で1球団と西日本に本拠地を置くチームが多く、移動日を計算してもシーズン中は移動ばかりで体を休ませる時間はほとんどない。この状況でもリーグを制覇し、日本シリーズでも勝利した当時のロッテは、それだけでも非常に屈強な軍団であったことがわかるだろう。

さらに、もう1つ彼らを苦しめたのが、前年から続いていた太平洋との遺恨問題だ。ロッテの優勝を支えた強力打線の一角、ラフィーバーの入団をめぐり、争奪戦を繰り広げた太平洋との間に大きなしこりが残ったことで、球団側だけでなく監督、選手、ファンを巻き込んだ不毛な小競り合いを続けていたのだ。

この遺恨問題は、金田監督が退場する乱闘劇や、試合に警察の機動隊が出動する大事にまで発展することとなるのだが、結果的には選手、ファンの心に火をつける要因にもなったのは間違いないだろう。そんな、数ある苦境の中でもロッテは勝ち星を重ねていき、シーズン前期(当時のパ・リーグは前後期制)を阪急に次ぐ2位で終えると、後期は猛追する南海から逃げ切っての優勝を決め、勝率1位でシーズンを終えたのである。

その後ロッテは、前期を制した阪急とのプレーオフでも3連勝し、この年のパ・リーグ優勝を暫定本拠地の宮城球場で飾ることとなる。過酷なシーズンを戦った選手たちも、金田留広の投手冠とベストナインをはじめ、三井雅晴の新人王、正捕手・村上公康、有藤通世のベストナインとダイヤモンドクラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)受賞など、数々のタイトルを獲得した。

出典:『がっつり! プロ野球(28)』

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