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沖縄のレジェンド。安仁屋宗八の物語【二宮清純 スポーツの嵐】

Text:二宮清純

「都市対抗野球に初めて出場した沖縄の選手」

 通貨はドルから円に、車は右側通行から左側通行に――。

 1972年5月15日、沖縄の施政権が米国から日本に返還された。すなわち、今年は沖縄の本土復帰50周年という節目の年にあたる。

 沖縄に野球が伝わったのは、本土より21年遅れの1894年と言われている。

<当時、沖縄中学(現・首里高校)の生徒らが本土修学旅行の際に、京都の第三高等学校(現・京都大学)を見学。その時「野球」と出会い、三高の学生からいろいろと野球の説明を受け、野球用具をみやげに持ち帰ったことが沖縄野球のスタートにあたります>(首里高校PTA新聞『津梁』)

 沖縄代表として初めて甲子園の土を踏んだのも首里高だ。米国の統治下にあった1958年、第40回記念大会に出場し、初戦で敦賀高(福井)に0対3で敗れた。

 選手たちは、無念の記憶として、汗と涙の染み込んだ土を沖縄に持ち帰ろうとした。

 ところが、である。沖縄は米国の統治下にあったため、検疫に引っかかり、海に捨てられてしまったのである。

 これは社会問題にまで発展し、同情した客室乗務員が捨てられた土の代わりに小石を送るという美談を生む。石は検疫の対象外だったのだ。

 沖縄県出身初のプロ野球選手が誕生するのは、この6年後のことだ。

 社会人野球・琉球煙草の安仁屋宗八が、都市対抗野球での好投が認められ、広島に入団するのである。

 安仁屋によると、自身は、「都市対抗野球に初めて出場した沖縄の選手」とのこと。63年、大分鉄道管理局(大分市)の補強選手として後楽園のマウンドを踏み、覚えたてのシュートで相手打者のバットを何本もへし折った。

 プロで通算119勝をあげ、シュートを武器に“巨人キラー”として名を成した安仁屋のサクセスストーリーの原点は都市対抗野球。大会前の合宿で大分鉄道管理局の捕手にシュートを教わり、それがプロのスカウトの目に留まった。人生、どこで運命の歯車が周り始めるかわからない。

 だが入団交渉を行うには高いハードルを越える必要があった。パスポートを取得して沖縄に飛ぶには、最低でも1カ月はかかった。

 広島には米国籍のフィーバー平山という選手がおり、球団は“にわかスカウト”に仕立てて、交渉にあたらせた。他球団のスカウトが地団駄を踏んだのは言うまでもない。

 沖縄野球のレジェンドである安仁屋の広島時代のユニホームは、現在、沖縄セルラースタジアム内の野球資料館に展示されている。

※上部の写真はイメージです。
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