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池永正明の無念。「黒い霧」の代償【二宮清純 スポーツの嵐】

Text:二宮清純

5年目までに99勝していた池永正明

 もし「永久追放」処分を受けなかったら200勝、いや300勝していたかもしれない。それくらいの逸材だった。

 西鉄ライオンズのエースとして、入団5年目までに99勝をあげた池永正明がさる9月25日、がんのため死去した。76歳だった。

 下関商(山口)の2年生エースとして1963年のセンバツで優勝、同年夏の甲子園で準優勝に貢献した池永が西鉄に入団したのは65年。いきなり20勝、防御率2.27という好成績で新人王に輝いた。

 西鉄の同期が64年春、徳島海南のエースとして優勝を果たす尾崎正司(現:将司)。「投手としては、とてもかなわない」と観念した尾崎がプロゴルファーに転じ、その後、ジャンボ尾崎として名を馳せるのは有名な話である。

 池永は入団3年目の67年、23勝をあげ、最多勝投手に。東映時代に池永と対戦した張本勲は、<真っすぐも速いけどシュートとスライダーが抜群。球審がボールと言ってもマウンドから下りてきて「先輩、いいボールでしたよ」と私をからかうんだから度胸もあった>(スポニチ9月27日付け)と述べている。

 池永の選手生命を奪ったのが69年オフの「黒い霧事件」である。池永は西鉄時代の先輩・田中勉から100万円を受け取ったとして、70年5月に球界を追われるのだ。

 田中は西鉄時代の66年に完全試合を達成するほどの好投手だったが、シュートの投げ過ぎが原因でヒジを痛め、68年に中日に移籍していた。

 69年9月、田中から声がかかり、2人は博多の繁華街・中州で再会した。

 その席で、田中は池永に100万円の入った新聞包みを渡した。八百長の依頼である。

「先輩、八百長は困ります。できんとです」

 そう言って断った池永だが、先輩に土下座までされたら、無下にするわけにはいかない。そこで一時的に預かったのが運の尽きだった。

 ギャンブルに入れ込んでいた田中は翌70年4月、小型自動車競争法違反、要するにオートレースの八百長容疑で逮捕される。その田中の口から、池永の名前が出たのである。

 池永は100万円の授受については認めたが、八百長への関与は一貫して否定し続けた。当時のプロ野球には、池永以外にも暴力団関係者などからカネや高級時計を受け取っていた者が何人もいた。そのため「池永は見せしめにされた」という声が、少なからずあった。

 罰則は当然だが、果たして適正な“量刑”だったのか。プロ野球史上最大の汚点である「黒い霧事件」からもう半世紀以上が経つ。

※上部の写真はイメージです。
初出=週刊漫画ゴラク2022年10月7日発売号