過酷な合宿を乗り越え歴史的勝利
日本 34 ― 南アフリカ 32
2015年、ワールドカップイングランド大会の予選プールBを、日本代表は3勝1敗で終えた。3つの白星を挙げながら準々決勝に進めなかったのは、大会史上初めてのケースだった。
2012年から4年間、エディー・ジョーンズヘッドコーチがジャパンを率いた。佳境を迎えた大会開催年は、春先から夏まで宮崎で合宿を張った。6月は1日3回、4回は当たり前の猛練習を続けた。
選手は「先が見えない」と思った。合間に昼寝も時間が設けられたが、疲れはあまり眠れない。周りの景色が変わらないから、気分転換も図りづらい。気が抜けたように映ったら、指揮官から怒鳴られた。
7月のパシフィック・ネーションズカップでは、1勝3敗と負け越した。しかし、この大会から途中合流したウイングの松島幸太朗は、不安よりもむしろ期待感を抱いた。「フレッシュな状態でやったら、どこまでできるのかな、と」
9月に現地入りすると、練習量の調整がなされた。個々の体調は徐々に「フレッシュ」になった、9月19日の初戦では、過去優勝2回の南アフリカ代表を相手に「フィジカルもフィットネスも我々が上と感じられた」と五郎丸歩は言う。34対32での歴史的勝利が、快進撃の序章となった。理不尽な鍛錬を乗り越えた先に、重圧のかかる試合での歓喜があった。そのプロセスは大会後、「いい準備」と表現されるようになった。「準備」は選手の仲間内にもあった。例えば、首の手術などを経て5月から合流したフッカーの堀江翔太は、所属するパナソニックの田邉淳バックスコーチと連絡を取り合った。守備システムをブラッシュアップし、大会中の猛タックルの下地を作った。
ジョーンズヘッドコーチは、4年後の日本大会での8強入りについて「難しい」と言った。代表チームの強化では自らの責任を果たしたが、職責の範囲外にある選手育成に乱れがあるとの意味だ。事実、15年大会の好結果は現代表の手柄で、日本列島全土の手柄かはわからない。
その仮説を全面否定はしない堀江は、しかし、こんな決意も明かした。「与えられた戦術、戦略を選手が100パーセント理解して、実行する。それにプラスして、どうしたらそれをよりよくできるのかを考える」
指示行動の枠内に収まらないで歴史を紡ぐ、その覚悟をにじませた。
世界を驚愕させた「ブライトンの衝撃」
ラストワンプレー。カーン・ヘスケスが左タッチライン際で逆転トライを決める。34対32。優勝回数2回の南アフリカ代表から、日本代表は、大会24年ぶりの勝利をもぎ取った。
15年9月19日、会場のブライトンコミュニティースタジアムは、まさに狂乱状態だった。ワールドカップ3大会目の出場だったロックの大野均は、片隅で、泣いていた。
フランカーのリーチ マイケル主将は、「レフリーとうまくコミュニケーションが取れた」。この午後の一戦を担当したジェローム・ガルセスは、8月に宮崎のジャパンの合宿地を訪れていた。「俺がよく取られる反則のことも聞けた」と話す船頭は、ガルゼスの「アタックに有利に吹く」との傾向を掴んでいたのだ。
そして当日、勝者は球を継続し、接点で敗者のノット・ロールアウェー(タックラーが展退しない反則)を招いた。何度も、何度も。
ロックの真壁伸弥はこうだ。「南アフリカ代表のリロード(倒れた後にすぐ立つ動き)が遅い。それを(日本代表のサポート役が)足で抑えたりして……(反則を誘えた)」
日本戦の敗北が皮肉にも南アを蘇らせることに
南半球最高峰のチーフスで相手のスカウティング方法を学んだリーチ主将は、「南アフリカ代表戦では、これ以上ないくらいに相手の分析をしました」とも言う。ホワイトボードに書き出し、選手同士で相手メンバーの特徴をくまなく共有……。大会での快進撃を支えたこの準備方法を、初戦から機能させたのだ。
対するスタンドオフのパトリック・ランビーを「タックルに難あり」と見て、センターの立川理道はどんどんぶつかった。
「最初にヒットした瞬間。僕の仕事は決まったな、と思いました」
リハーサルが奏功した日本代表に対し、南アフリカ代表は試運転の感を露わにしていた。強力なモールを押し込みスコアしながら、「フェーズプレー(ボールを回す攻め)を多くしてしまった」とは、スクラムハーフのフーリー=デュプレアだ。
目の前の相手に勝つための選択より、この先に勝つための予行演習を
優先したか……。
そう。この歴史的な80分は、この2つの教訓を世に訴えたのだ。「世の中に不可能なものはない」「油断大敵」
実は大会前から不振にあえいでいた南アフリカ代表は、この黒星を機に結束。長所の力感を全面に押し出し、大会3位に上り詰めた。
公開日:2018.11.09
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