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中尾孝義、大久保博元、村田真一。捕手たちが斎藤雅樹に与えた影響とは?

Text:遠藤玲奈

斎藤雅樹さんトークショーレポート(20.2.26)

「平成の大エース」と呼ばれる斎藤雅樹さんの野球人生のスタートは小学5年生と決して早くはありませんでした。ボールとバットではさんでしまってできた当時の傷が、今も指に残っています。
6年生になって得たポジションは、レギュラーが不在だったキャッチャーでした。チームは優秀で、全国大会ベスト4の成績を修めました。

中学校では軟式野球部に所属し、その先の進路について考えた時に挙がったのが、市立川口高校でした。野球部の監督が、リトルリーグの事務局長だった内山清さんだったのです。
現在の阪神タイガースである大阪タイガースの元投手で、開幕投手を務めたこともある方です。市立高校ですから推薦枠はありません。受験勉強が実り、晴れて入学、入部となりました。

内山監督の下、部員一同練習に励みましたが、残念ながら甲子園出場は叶いませんでした。それでも全球団のスカウトが視察に訪れていました。それほどの注目を集めることになったきっかけのひとつが、3年生の6月に早稲田実業高校を相手に行われた練習試合でした。
当時の早稲田実業高校では、同い年の荒木大輔投手の活躍が大きな話題でした。1対0で惜しくも敗戦となりましたが、斎藤雅樹さんの投球は相手ナインに強烈なインパクトを与えました。


ドラフト会議の中継は授業中だったので見られませんでした。授業が終わるとともに報道陣が教室に入ってきて、ジャイアンツだよ、と知らされました。
当時は1月半ばにコーチも揃ってのトレーニングが開始されていました。二軍の練習についていけず、体力不足を痛感したそうです。当時の二軍は国松彰監督、須藤豊コーチ、高橋善正コーチといった布陣でしたが、なんと斎藤雅樹さんには野手転向の話も出ていました。他の投手は投手練習だけなのに、ひとり野手練習も課されていたそうです。

そんなある日、二軍の練習場である多摩川グラウンドに藤田元司一軍監督がいらっしゃいました。投球練習をしている斎藤雅樹さんに、腕を下げてごらん、とひと言声をかけました。その後、サイドスローの練習を徹底し、9月のイースタン戦の登板で手応えを得ることができました。2年目に開幕を一軍で迎えてからのあまりに輝かしい成績は、ファンの皆様のよく知るところです。


中尾孝義、大久保博元、村田真一。それぞれの持ち味

バッテリーを組んでいた中で印象深いキャッチャーのおひとりは、中尾孝義さんだそうです。
内角を攻めるのがあまり得意でなかった斎藤雅樹さんに対し、中尾孝義さんはあえてそのサインを多用しました。そのおかげで、それまでに自分が慣れていたのとは違う、新しいパターンの投球ができるようになりました。

大久保博元さんと組むようになった時にも同様のことがありました。シンカーは左打者相手にしか投げないようにしていた斎藤雅樹さんでしたが、大久保博元さんは右打者の時にそのサインを出しました。とっさに首を振り、その時は別のサインが出たのですが、後でバッテリーで話し合った際、右打者にも投げればいいじゃないですか、と大久保博元さんは改めて提案しました。確かにそうだと斎藤雅樹さんも納得したそうです。

キャッチャーが変わって投球の幅が広がる好例ですが、ピッチャーにとっていちばんありがたいのはやはり、自分のことをよくわかってくれるキャッチャー。寮から一緒でお互い気心が知れている、投げたいサインがすぐ出たと、村田真一さんのことを懐かしそうに語ってくださいました。

成長する鍵は、成功体験を続けて自信を得ること。指導者経験も豊富な斎藤雅樹さんの持論です。
エース道の伝授を願うピッチャーが各球団にたくさんいることでしょう。再度のユニフォーム姿が目に浮かぶような球春のひとときでした。

『ラブすぽ』ライター:遠藤玲奈
池田高校のやまびこ打線全盛期に徳島に生まれる。慶應義塾大学法学部卒業、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。選手としての経験はないが、独自の方法で野球の奥深さを追究する。特に気になるポジションは捕手。フルマラソンの自己ベストは3時間31分。

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