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打率最下位ながら本塁打王の珍記録残したクラレンス・ジョーンズ!南海&近鉄で優勝請負人に

Text:橋本雅生

助っ人外国人列伝/アメリカ1970年代編

1970年代に各球団で大活躍した球史に残る実力派の助っ人たちをプレイバック!

「扇風機」と揶揄されるも主砲として貫禄を見せる

クラレンス・ジョーンズ
NPB通算8年:(1970~1977)
961試合 打率.239 246本塁打 562打点


●豪快な打棒で当たればスタンドイン!在籍2球団の主砲で優勝請負人に!
1960年代までの助っ人は日系アメリカ人やハワイ出身が多かったが、1970年代に入るとアメリカ本土からの選手が多くなってきた。クラレンス・ジョーンズもそんな一人で、長いマイナー生活を経て主砲候補として来日。年俸がわずか650万円と低評価の入団だったが、クラレンス・ジョーンズは開幕戦のダブルヘッダーで周囲の期待をいい意味で裏切り、巨体を活かした豪快なスイングで打った瞬間にそれとわかる4本塁打の衝撃デビューを果たした。

南海ホークスでは4年連続で30本をクリアする主砲となったクラレンス・ジョーンズは、1973年に監督・野村克也にとって初のリーグ優勝に大きく貢献した。だが、好不調の波が極端なうえ、「扇風機」というあだ名が付けられるほど三振や凡打も目立ち、打率が2割台前半だったことからクラレンス・ジョーンズは自由契約となり、1974年に近鉄へ移籍。

ここでもクラレンス・ジョーンズの扇風機ぶりは相変わらずだったが、打率最下位ながら本塁打王の珍記録を残し、1975年には近鉄の半期初優勝の原動力となった。NPB在籍8年間でクラレンス・ジョーンズは三振王5回に通算246本で本塁打王2回と記録と記憶でインパクトを与え、1977年に引退。

その後のクラレンス・ジョーンズはブレーブスで打撃コーチを務め、デビッド・ジャスティスやチッパー・ジョーンズを育てた。なお、俳優のリチャード・T・ジョーンズはクラレンス・ジョーンズの息子で南海時代に生まれている。

出典:『がっつり! プロ野球』

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