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肘ガード使用で打率アップを実現!巨人にFA移籍した落合博満の穴を埋める活躍を披露したアロンゾ・パウエル

Text:橋本雅生

助っ人外国人列伝/中日ドラゴンズ編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ選手を紹介する。

巨人にFA移籍した落合博満の穴を埋める活躍を披露したアロンゾ・パウエル

【第2位】アロンゾ・パウエル

〈NPB通算データベース〉
・打率 313
・本塁打 116本
・打点 397打点

スラム街でプロを夢見た少年がメジャーリーガーに

助っ人外国人は海外で高い評価を受けていてもNPBで活躍するとは限らない。それとは逆でタイロン・ウッズのように、NPBで大化けすることもあるのが助っ人外国人の面白いところだ。

打者編第2位のアロンゾ・パウエルも日本でブレイクを果たした助っ人外国人の一人。1964年、カルフォルニア州サンフランシスコでパウエルは生まれた。アメリカでとくに治安が悪いといわれるサンフランシスコの事件が横行する地域で育ち、ドラッグに手を染めた友人が射殺されたこともあった。

そんな環境下にいたパウエルは、女手一つで育ててくれた母親に報いるべく、幼いころからメジャーリーガーを夢見て野球に励んでいた。その甲斐があってオクラホマ大学在学中に、アマチュアFA(ドラフト外)からジャイアンツへ入団を果たす。

だが、メジャー昇格までの道のりは険しく、マイナーリーグの最下層の1Aで5球団も渡り歩いた。給料だけで生活ができなかったが、夢を追い続けたパウエルは空港でアルバイトをしながら野球を続けた。

そして、1987年にエクスポズで念願のメジャーデビューを果たし、1991年は移籍したマリナーズで78試合に出場している。ただ、その後もメジャーとマイナーを行き来している時期に、遠い日本からNPB入りの話が舞い込んできた。

肘ガード使用で打率アップを実現

1992年の中日は落合博満が4番に鎮座し、助っ人外国人のマーク・ライアルが脇を固めていた。しかし、開幕直前にライアルは半月板損傷で帰国し、代役としてパウエルに白羽の矢が立ったのである。パウエルはNPBを経験して大化けした元阪神のセシル・フィルダーからも勧められて日本行きを決意したという。

シーズン中の5月に途中入団したパウエルは、最初こそ変化球主体の投球に合わせることができなかったが、助っ人外国人では珍しいボールを見極めてスイングするタイプだったこともあってすぐに順応する。

5月半ばから器用な広角打法でヒットを量産し、1年目は規定打席不足ながら打率・308、13本塁打、35打点の成績を残した。一方のライアルは復帰後に球団と揉めて解雇となり、パウエルは晴れて外国人枠を勝ち取ったのだ。

年間を通してプレーできることで実力を発揮できたパウエルは、2年目の1993年にさらなる飛躍を遂げる。内に踏み込みながらスイングするため死球による離脱もあったが、クリーンアップとしてチーム三冠の打率・317、27本塁打、66打点を記録。安定感抜群の中距離ヒッターとして、中日ファンを喜ばせたものである。

そして、本領を発揮したのが1994年のシーズンだ。前年、死球による離脱があったことで肘ガードを装着してプレーするようになると、死球への恐怖心がなくなりより踏み込むバッティングを披露するようになった。すると打撃力はさらに向上し、打率・324で首位打者のタイトルを獲得。

今でこそ肘ガードは高校球児も使用するほど一般的だが、その普及に一役買っていたのがパウエルなのだ。

なお、同年から落合がFAで巨人に移籍したが、パウエルがその穴を埋める活躍をしてチームは優勝争いを演じ、伝説となった「10.8決戦」にも出場している。

6シーズンで5度の3割超えを達成

シーズンを追うごとに成績を上げてきたパウエル。その裏付けとして真摯に野球に取り組み、常に全力プレーの実践があった。1995〜1996年もクリーンアップとしての存在感が光り、1995年は打率・355、1996年が打率・340と高打率をマークし、遂には助っ人外国人初となる3年連続首位打者の大記録を達成する。

同時期にパ・リーグではオリックスのイチローが3年連続首位打者となっていたこともあってさほど注目されなかったが、入団から5年連続の3割クリアは賞賛に値する実績だろう。

しかし、肘や膝の怪我をかばいながらの全力プレーは大きな代償を負ってしまう。その影響で下半身が細くなったパウエルは、左膝がランニングもできないほど悪化し、6年目のシーズンは打率・255と低迷。また、星野仙一監督との確執も噂され、1998年は阪神に移籍する。

新チームで再起を図りたかったパウエルだったが、膝の悪さから走り込みができず、明らかな過体重でかつてのパフォーマンスを見せることはなかった。

日本で7年間プレーしたパウエルは、アメリカでメジャーに再挑戦したが、昇格が叶わず2001年に現役を引退。その後、マイナー球団の監督に就任し、パドレスやマリナーズの打撃コーチも務めるなど、指導者としての手腕も発揮している。

2018年に癌が発覚するも手術を受け、2020年から1年間限定で中日の巡回打撃コーチに就任するなど、元気な姿を見せてファンを安堵させている。余談だが、プロ野球選手として成功を収めたパウエルは、母親に大きな家をプレゼントしたという。

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