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大内義興は、なぜ異国の町で細川氏と事を構えたのか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

日明貿易による莫大な利権を争って

応仁・文明の乱の序盤は東軍が優位に進めていたが、西国からの援軍の到来にともない西軍が盛り返し、ほぼ互角の形勢となった。この援軍のなかでも周防(すおう)の大内政弘(おおうちまさひろ)の存在は大きく抜きん出ていた。

『経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)』という興福寺僧の日記によれば、政弘が率いてきたのは周防・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・伊予(いよ)など8カ国の武士数万人。政弘の後を継いだ長男・義興(よしおき)はその勢力範囲をほぼ受け継ぎ、明応2(1493)年には京都から締め出された10代将軍足利義材(義稙)を山口に迎え、細川政元死後の永正5(1508)年には上洛を決行。義稙を将軍に復帰させるとともに、それから10年間京都にあって、細川家分流の細川高国(たかくに)とともに幕府権力を支え続けた。

同じ細川家でも京兆家とは終始、敵対もしくは競合関係にあり、大永3(1523)年には明国の港町・寧波(ニンポー)で戦火を交えたことさえあった。

なぜ寧波かといえば、それには当時の日明貿易が関係する。威信財としての唐物(中国産品)需要が高く、自由貿易が認められない状況下では、日明貿易は確実に儲かる商売で、その取引の場として利用されたのが寧波だったのである。

堺商人と結んだ細川氏の財政基盤に、博多商人と結んだ大内氏が割って入ったのだから何も起こらないはずはない。事件の発端は後着の細川船が賄賂(わいろ)を用いることで、先着の大内船より早く手続きを終えたことにあった。

大内義興自身がその場にいたわけではないが、義興の意を呈(てい)しての行動と見てよいだろう。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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