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プロで代打/松坂大輔に2点適時打を打たれ引退しようとした東農大プロ野球選手第1号!栗山聡【東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方】

Text:樋越勉

プロ野球選手第1号

栗山聡/1996年度卒・オリックス(1997-2001)、中日(2001-2004)、オリックス(2004)

 新潟・新発田中央高校の相川監督が私の大学1年時の部屋長というご縁が始まりだった。当時はよく殴られもした(笑)。だが、あの当時は付き人みたいなもので、ずっと可愛がってもらっていたし、相川さんが教職を取るために2年間は大学に残っていたので、一緒に授業も受けた仲だった。

相川さんに「彼はいずれプロに行くから」と言われて紹介されたのが栗山だった。新潟の高校野球雑誌にはCランクとはいえ名前が載るような選手で、その雑誌も送られてきた。ただ1回戦、2回戦で負けていたような投手だったし、網走に練習参加のため連れてきてもらったら球速は速くても127キロ。その数値だけだと話にならなかったが、体は大きくて(183センチ)フォームのバランスが良かったので「やればなんとかなるかな?」と合格にした。

そして何より彼には意欲があった。「どうしてもプロに行きたい」という気持ちが十二分に伝わった。田舎の子なのでまだ何も教わっていない無垢な印象もあって伸びしろを感じた。その目論見通り、体が大きくて馬力があったので、北海道の大学野球界で目立っていくのに時間はそうかからなかった。2年・3年と学年が上がるにつれて球も速くなってきた。

 

彼は「練習しないタイプ」。頑固で、入ってきた時は天狗のようなところもあった。そのため、私の言うことを無視するようなことで事件も引き起こした(笑)。下級生の時、社会人の練習に参加するよう伝えた時のことだ。当時、静岡にあった大昭和製紙富士(現在廃部)に練習参加するように言った。だが、当時の大昭和製紙富士は猛練習で知られていた。1年前に行った先輩たちから「メチャクチャ走らされるぞ。やめておけ」と聞き「行きたくない」と言い始めた。ウチの練習もキツいが社会人はそれ以上で嫌だったようだ。

 

「監督の言うこと聞かないんだったら外に出ていろ!練習には一切入ってくるな!」練習から外し、しばらくは外野で球拾いだけをさせていた。それでも彼が凄かったのは、この時の行動だ。普通の選手なら私に言われた「球拾い」をするだけだが、栗山は拾った球を箱にただ入れるのではなく、一球一球、センター方向に投げていた。

レフトの位置にいる栗山の足元に、ボールが転がる。それを拾い上げ、センター方向に遠投する。ライトに移動しても、それを繰り返す。最後はセンターの位置に集まったボールをかごに入れる。一日の練習で、一体何球、遠投しただろうか。栗山には練習を外されても、少しでも練習になるようなことを自らの意志でする姿勢があった。

さらにその際のエピソードがもうひとつ。球拾いをやった後に黙々と走らせていたのだが、脱水症状になってきたので、やめさせた。そこで寮でゆっくり休ませておけばいいものを、「大昭和製紙富士に行くのはやめておけ」と栗山に伝えた先輩たちが「俺たちのせいだ」と申し訳なく、不憫に思ったようで食事に連れ出した。

 

しかし、さっきまで脱水症状だったにもかかわらず飲み食いしたものだから、盲腸まで併発して病院に運び込まれてしまった。そこで私がお見舞いに行ったら「トイレに行きたい」と言う。「点滴があるから1人で行けない」とも言う。仕方なく、栗山の点滴を持ちながら彼の大便に付き合ったのがイイ思い出だ(笑)一生懸命だったが本当にドジな奴だった。

そんなこともあったが、彼の意識も徐々に高くなっていった。3年生になる前に「このままじゃプロ行けないよ。もっともっと練習やらないと」と言ったら、黙々と取り組むようになった。1年の時からエースだったが3・4年の時からは体もできて、球筋も良くなっていた。うちもちょうど1部リーグに上がったし、全日本大学野球選手権にも初出場したように、チームの強化も進んでいる時期だった。

1995年回大会
1回戦大阪体育大学●2対4
1996年回大会
1回戦九州共立大学●1対6
全国で勝てはしなかったが、アピールは順調にできた。

 この時はリーグ戦が開幕してからも寒く、開幕戦なんて雪が降った。そんな悪条件でも平然と投げていたからタフさもあった。
 当時はまだ網走ドーム(詳細後述)ができる前。ゲートボール場やゴルフの打ちっぱなしの場所で練習したこともあった。冬場はゴルフ場や体育館でのトレーニング、5階建ての校舎を上り下りした。それを100周。その中でも栗山は与えられたものは一生懸命やるし、それ以上はやらないと割り切った子だった。性格がハッキリしていたのもプロ向きだったと言える。

ドラフトの日は会見場を作って白衣で指名を待たせた。理系の大学として売り出すためだ。4年の時は146キロくらい出ていたし「ドラフトで指名しますよ」とスカウトには言われていたが、やはり指名の瞬間は「プロ野球へ送り出す」という1つの目標が叶って、そりゃあ嬉しかった。就任時に立てた『5つの誓い』(※)の1つがそうだったからね。

プロでは代打・松坂大輔(西武)に2点タイムリーを打たれた時(2000年8月7日)には俺に電話かけてきて「監督さん、野球辞めます」って。それくらいショックだったようだ(笑)。でも「松坂大輔はもともと打撃が良くて、相手もお遊びで出したんじゃない」と慰めた。でも、新聞やテレビにも打たれたシーンが何度も出たからね。あの時「なら辞めちまえ」と言ったら辞めていたかもしれない(笑)それくらい落ち込んでいた。

 

現在はパナソニックの神戸の支社で上の方の役職をやっているはず。社業に専念するようになってすぐは「監督さん、パソコンが使えません。みんな両手で打っているのに僕は人差し指だけで…」と嘆いていて「勉強しろ!」なんて言ってた。一流企業なだけに「席の隣は早稲田卒や慶應卒。僕だけ農大ですよ」と笑っていたが、大変だったと思う。プロ野球の世界では大活躍とはいかなかったが、社会で一流の戦力になっていることを誇りに思う。

出典:『東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方』著/樋越勉

『東農大オホーツク流 プロ野球選手の育て方』
著者:樋越勉

多くのプロ野球選手を輩出する北の最果て、北海道網走市にある東京農業大学オホーツクキャンパス野球部。恵まれた施設環境ではないにも関わらず、なぜ有力選手が育つのか⁉東農大学野球部のカリスマ、樋越監督の選手を見抜く眼力と、その育成術を紹介‼プロ野球選手の育て方、ドラフトへ送り込む手腕、練習環境の整え方などを、具体的に解説するプロ野球ファンや指導者必見の一冊。愛弟子の周東佑京のコメントも収録。

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