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太田道灌は、なぜ主君によって殺されたのか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

器量の小さい主君に優秀さを危険視された

室町幕府は関東統治の出先として、足利一門から鎌倉公方(くぼう)を選び、その補佐役である関東管領には重臣の上杉氏をあてがった。

関東では畿内より一足早く秩序が乱れ始め、15世紀後半には鎌倉公方に代わって古河(こが)公方と堀越(ほりごえ)公方が並び立ち、上杉氏も扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏の二大勢力が家督と関東管領の職を巡って競合関係にあった。しかし、一人の賢者がいたことで、危ういながらも微妙な均衡が保たれていた。その賢者の名は太田資長(おおたすけなが)。出家後は道灌(どうかん)と号した。

太田道灌は扇谷上杉氏の「家宰(かさい)」(家老)。文武両道の人で、内政・外交ともに巧みなら、土木の才をも有していた。当時はまだ湿地帯であった江戸に価値を見出し、最初に城郭を築いたのも道灌だった。

その名声は隣国にも轟(とどろ)いていた。駿河の今川家で内紛が生じたときも調停に出向き、それが片付く長尾景春(ながおかげはる)が謀反(むほん)を起こしたと聞いて、急ぎ東へとって返すなど、関東から東海の平穏を一人で背負うかの感さえあった。

主君筋から感謝されることはあっても、恨まれる筋合いはないはずの道灌だが、器量のない人物は往々にして妬嫉心が強く、扇谷上杉氏の家督を継いだ定正(さだまさ)はその典型だった。

そして、定正による道灌の謀殺(ぼうさつ)。この一事によって定正と山内上杉氏の当主・顕定(あきさだ)の関係が急速に悪化。全面戦争となるなか、顕定が伊勢盛時(もりとき)「北条早雲(ほうじょうそううん)」に助力を求めたことから、関東の動乱は新たな段階に移行した。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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