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毛利元就の「三本の矢の教訓」は実話?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

長男に先立たれたので、後世の創作

安芸(あき)の毛利氏は鎌倉幕府の創建に立ち会った大江広元(おおえのひろもと)の後裔(こうえい)で、広元の曾孫時親(ときちか)が郡山に土着化した。

毛利氏は数いる国人領主の一人であったが、元就(もとなり)の代には西の大内氏と東の尼子(あまご)氏の間を上手く立ち回り、大躍進を遂げる。陶隆房(すえたかふさ)「晴賢(はるかた)」による大内義隆(よしたか)打倒の政変時には隆房に呼応し、以降は陶氏と尼子氏を天秤に掛けた。弘治元(1555)年の厳島(いつくしま)の戦いで陶晴賢を滅ぼしたのに続いて、永禄9(1566)年には尼子義久(よしひさ)を降伏させ、中国地方西半分における覇権を確立させた。

元就には頼れる男子が3人いた。長男・隆元(たかもと)には毛利家の家督、二男・元春(もとはる)には安芸国大朝(おおあさ)本拠地とする吉川家、三男・隆景(たかかげ)には同じく竹原庄を、本拠地とする小早川家を継がせ、兄弟間争うことなどないよう、1度ならず訓戒を与えた。

元就は自身が家督相続をする際、流血をともなうお家騒動を経験しており、それがある種のトラウマとなったことが考えられよう。

元就が臨終の床に右の3人を呼び招き、「三本の矢の教訓」を垂れたという逸話は後世の創作だが、それに類した話は日頃から何度も口にしていたらしい。「三本の矢の教訓」は北アジアの騎馬民族の間に古くから伝わるものなので、元就は漢籍(かんせき)を通じてそれを知り、座右の銘としたのかもしれない。

また長男の隆元は元就より早く没しているので、元就の臨終に立ち会えようがなく、「三本の矢の教訓」は隆元の嫡男・輝元と叔父である元春と隆景が支える形で実現されることとなった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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