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尼子晴久は、なぜ親族の新宮党を粛清したのか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

傍若無人な振る舞いが高じたため

出雲(いずも)の尼子(あまご)氏は近江源氏の末裔(まつえい)。尼子経久(つねひさ)の代には大内氏と張り合いながら、山陰山陽11カ国を制圧した時期もある。

経久の長男・政久(まさひさ)は早くに戦死したため、経久の隠退後は孫の詮久(あきひさ)が継いだ。12代将軍足利義晴から一字をもらい、晴久(はるひさ)と改名。幕府の御相伴衆(ごしょうばんしゅう)になるなど、幕府の権威を利用しながら版図の再拡大に励み、最盛期には8カ国の守護を自認していた。

家督を継承して間もない天文9(1540)年には毛利氏の本拠地である吉田郡山(よしだこおりやま)城への遠征を試みるが、天然の要害(ようがい)を最大限活用した堅い守りを攻めあぐねていたところ、毛利氏救援にやって来た陶晴賢率いる大内軍に背後から攻められ、大敗北を喫した。

これを受けて、尼子氏勢力圏全体に動揺が走り、離反する国人領主が続出すると、大内義興は攻勢に転ずる絶好の機会と捕らえ、大軍を動員して尼子氏の本拠地である月山富田(がっさんとだ)城に攻め寄せた。

受けて立つ晴久。大半の城は落とされたが、堅固なことでは吉田郡山城に引けを取らない月山富田城は、2カ月半に及ぶ籠城(ろうじょう)戦を耐え抜いた。戦いの長期化に伴い、離反した国人領主の大半が尼子氏に回帰すると、義興も執着を捨て、退路を断たれる前に全軍を撤退させた。

かくして最初の危機を乗り切った晴久だが、その後の同23(1554)年に親族の新宮党を粛清した(下図参照)ことは、権力集中のためとはいえ、尼子氏全体の力を大きく削ぐ結果となった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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