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明智光秀は、浪人出身で住所不定だったって本当?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

近江田中城に住み医学の心得があったとの説も

明智光秀(あけちみつひで)は知名度の高さに反比例して不明な点が多い。生年も不明なら、出生地にしても現在の岐阜県と滋賀県の4カ所が名乗りを挙げており、父親の名にしても複数の説がある。美濃(みの)源氏土岐(とき)氏の一族ではあるようだが、詳しい系譜まではわからない。

事績にしても、足利義昭上洛以前のことを伝える一次史料に欠け、軍記物語に記された内容を但し書き付きで流用するしかなかった。しかし、近年発見された史料から、光秀が永禄9(1566)年の10月以前に近江国高島の田中城にいて、初歩的ながら医術の心得を有していたことがわかった。

長い空白期間の1点がようやく埋まりかけたところだが、光秀の生涯を通じて最大の謎はやはり本能寺(ほんのうじ)の変の動機であろう。動機と絡んで、単独犯かそれとも共謀者や黒幕がいたのかといった点も、いまだ多くの歴史ファンを惹ひきつけてやまないテーマであり、今後もそうであり続けるだろう。

これもまた最近のことだが、本能寺の変に関する新史料が公開された。

それは本能寺の変から87年後、加賀(かが)藩の兵学者・関屋政春(せきやまさはる)により編纂された『乙夜之書物(いつやのかきもの)』に収められており、光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)の三男・利宗(としむね)からの聞き書きをもとにしている。利宗によれば、本能寺を襲撃したのは斎藤利三と明智秀満率いる先発隊2000余騎で、秀光は寺から約8キロメートル南の鳥羽(とば)に控えていたというのである。

これが新説となりうるのかどうか、今後の検討と議論が待たれてならない。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


「織田信長の桶狭間の戦いの勝利は、奇襲ではなく、徹底した情報収集と天の恵みのおかげだった」「徳川家康は自らの意思で正室と嫡男を殺した」「毛利元就の遺訓、三本の矢は後世の創作」従来の通説をくつがえす戦国史の新説をたっぷり検証!人気戦国武将52人の意外な素顔と戦いがわかる!戦乱の世を苛烈に生き抜いた、個性的で魅力あふれる戦国武将たち。信長、秀吉、家康の三英傑をはじめ、北条早雲、今川義元、武田信玄、上杉謙信、明智光秀、竹中半兵衛、黒田如水……。日本史に名を刻んだ戦国の武将たちの真実と魅力を、最新研究で徹底解説します。さらに戦国史研究の第一人者、小和田哲男が、先見性、企画力、統率力、実行力、教養、5つのポイントから真の実力を判定。

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