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大友宗麟(義鎮)は、どうして九州の「三強」になれたのか?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

明との貿易で得た膨大な富を後ろ盾に

豊後(ぶんご)の大友宗麟(おおともそうりん)はキリシタン大名の代表格だが、宗麟がキリスト教に帰依(きえ)したのは、はじめてイエズス会宣教師と接してから30余年後のことだった。

宣教師を優遇しながら、その教えには一切関心を持たない時期が長く、宗麟が惹かれたのはポルトガルとの南蛮貿易から得られる莫大な富だった。ただ、カトリックの守護者を自認するポルトガルとイエズス会が表裏一体であったことから、イエズス会に布教活動を許すなど、特別な配慮を与えていたようだ。

大友氏は前から、明(みん)および朝鮮との交易に熱心で、交易によりもたらされる利益をかかすことのできな源財としていた。豊後は貿易立国だったのだ。

宗麟が豊後大友氏の当主となったのは天文19(1550)年のこと。本来であれば、父の義鑑(よしあき)から長男の彼にすんなり家督が譲られるところ、義鑑が末子の塩市丸(しおいちまる)を溺愛したことから重臣間で不穏な空気が生じ、宗麟自身は関与していないが、「二階崩(にかいくず)れの変」と称される惨劇を経て、宗麟が家督と豊後・肥後・筑後3カ国の守護職を相続することとなった。

さらに永禄2(1559)年までに肥前・豊前・筑前の守護職と九州探題の肩書をも兼ね、島津義久(しまづよしひさ)と龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)と3人で九州を3分でするまになった。豊後府内はさかいに匹する貿易都市に成する。

宗麟の統治はすべて順調かと思われたが、宗麟自身がキリシタンとなった矢先、島津軍相手の高城(たかじょう)・耳川(みみかわ)の戦いで大敗を喫してからは神の加護も空しく逆風続きで、衰退の一途を辿ることとなった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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