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Jリーグ30年秘話。川淵三郎の突破力【二宮清純 スポーツの嵐】

Text:二宮清純

58クラブまで拡大したJリーグ

 まさに光陰矢の如し――。

 さる5月15日、Jリーグはスタートして30年目を迎えた。

 当初は10クラブでスタートしたが、現在はJ1、J2、J3合わせて58クラブにまで拡大した。

 今ではJクラブが存在しないのは、福井、滋賀、三重、和歌山、奈良、島根、高知の7県だけである。

 プロ化の立役者が初代チェアマン川淵三郎であることは言を俟たない。川淵の剛腕とリーダーシップには創業社長を連想させるものがあった。

 プロ化に反対する者に向かって、川淵がぶった演説は、今も語り草である。

「時期尚早という人間は100年たっても時期尚早という。前例がないという人は200年たっても前例がないという」

 まさに“Jリーグの生みの親”として知られる川淵だが、最初からプロ化に賛成していたわけではない。

「ボールひとつ、まともに蹴れない連中が何がプロだよ。笑わせるな」

 当初はそんな思いの方が強かったという。

 しかし、人間の運命というものはわからない。川淵によると、1本の電話が、その後の人生を変えたというのだ。

 1988年5月のことだ。古河電工の名古屋支店で営業部長をしていた川淵のもとに、支店長から電話が入る。それは子会社である古河産業への出向を告げるものだった。

 川淵は自らの仕事に誇りと自信を持っていた。「そろそろ東京に戻る頃かな。ポストは本社の営業部長あたりかな」とソロバンをはじいていた。

 ところが子会社への出向である。事実上の左遷だ。もう2度と本社に戻ることはできない。出世街道からはずれるわけだから、受けたショックは想像に難くない。

 自著『虹を掴む』(講談社)で、川淵はその時の心境を、こう述べている。

<受話器を置き、居間のテレビの前に座り込んだが、目にも耳にも、何も映らず何も入ってこない。今でも妻はよく「あんなに顔面蒼白なあなたを見たのは知り合ってから初めてだった」という。>

 だが捨てる神あれば拾う神あり――。傷心の川淵にJSL(日本サッカーリーグ)総務主事にならないか、との話が飛び込んでくる。88年夏のことだ。

「ひょっとして、新しい希望が持てるのかもしれない」

 総務主事はリーグの実質的な運営責任者。ここからプロ化への動きが本格化していくのである。

 川淵がもし左遷されなかったら、Jリーグは誕生していなかったかもしれない。歴史の綾を感じずにはいられない。

※上部の写真はイメージです。
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