1976年6月26日、東京・日本武道館で行われたアントニオ猪木との「格闘技世界一決定戦」でモハメド・アリが猪木サイドに求めてきたギャランティは、クローズドサーキットによる収入なども含めて計610万ドル(約18億3000万円)に上った。
だが興行が不振に終わったことにより、実際には180万ドル(約5億4000万円)しか支払われなかったとも言われている。いずれにしても当時としては大変な金額だ。
当時のWBA・WBC世界統一ヘビー級王者だったアリは、なぜ危険を冒してまで未知のプロレスラーと敵地で戦う必要があったのか。
昨年9月に日本国内でも出版された『評伝モハメド・アリ-アメリカで最も憎まれたチャンピオン』(ジョナサン・アイグ著、押野素子訳・岩波書店)は、数あるアリ本の中でも真打ちと呼べる大作だ。本書はその経緯を明らかにしている。
生涯でアリは4回結婚し、9人の子供をもうけたが、76年当時は2度目の離婚危機にあった。
2番目の妻のベリンダは結婚後、アリの要求に従ってカリラとイスラム風に名前を改め、4人の子供をもうけた。
ところがアリは不貞を重ね、74年、16歳のワンダ・ボルトンとの間に子供をつくった。まだベリンダとは離婚前だったため、“重婚”となる。他にパトリシア・ハーベルとの間にも一子をもうけた。
アリがベリンダと正式に離婚したのは猪木戦の翌年の77年。その後、アリは不倫関係にあった女優のヴェロニカ・ポルシェと結婚し、また離婚した。4番目の妻はヨランダ・ロニー・ウィリアムズ。86年11月に結婚した。
これだけ結婚と離婚を繰り返せば、慰謝料は莫大なものとなる。特に猪木と戦った76年の<目まぐるしいスケジュールは、選手の目まぐるしい生活を反映していた>(同前)。稼いでも稼いでも出ていく一方だったのである。
さらには身内の“使い込み”が発覚するなど、周辺での金銭トラブルも相次いだ。
甘い蜜に群がってきた有象無象の取り巻きたちが、骨までしゃぶり尽くすのは、この世界では、よくある話だ。
<本当は引退したいんだ。でも、1000万ドル出すと言われたら、なかなか簡単じゃないよ>
本書には、アリのこんな本音が紹介されている。
75年から76年にかけて、アリは世界戦を8試合も行っている。猪木戦も含めると9試合だ。自らが撒いたタネとはいえ、ハイペースで試合を重ねなければならなかったツケは、アリの体に大きくのしかかっていったのである。
※上部の写真はイメージです。
初出=週刊漫画ゴラク2023年3月10日発売号