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柴田勝家は、なぜ秀吉に決戦で敗れたの?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

戦場では「鬼」ながら、政争は大の苦手だった

織田信長は能力主義。使えない、用済みと判断した人間は目立った落ち度がなくても容赦なく切り捨てるが、使える人材は背(そむ)いても1度は許す。松永久秀がそうであったように、柴田勝家(しばたかついえ)も尾張時代に信長の弟・信勝(のぶかつ)支持派に属し、信長に刃を向けたが許され、それからは最後まで忠義を貫いた。

政治的な駆け引きはからきし苦手だが、戦場は遮二無二(しゃにむに)に突撃をさせたならば、織田軍団で勝家の右に出る者はなく、「かかれ柴田」の異名を取った。

迷いのない姿勢と行動こそ勝家の真骨頂。そういっても過言でなかったはずが、信長という絶対者がいなくなった途端、勝家は何事によらずぶれ始め、お市の方を妻としてからは、持ち味の切れと厳しさまで影を潜めるようになった。

天正11(1583)年4月、ついに羽柴秀吉(はしばひでよし)との直接対決を迎えるが、ここで勝家は往年であれば決してすることのない失策を犯す。甥にして片腕とも頼む佐久間盛政(さくまもりまさ)を制御し切れなかったのである。

盛政は秀吉軍の前衛にあたる大岩山砦(おおいわやまとりで)に奇襲を仕掛け、守将の中川清秀(きよひで)を討取ったのち、勝家からの撤退命令に従わず、同砦に居座り続けた。

それまで勝家が敷いていた布陣は、戦上手の秀吉をしても隙が見出せなかったが、佐久間隊が突出したことで大きな綻びが生じた。

こうなっては勝負ありで、勝家は越前北庄城(きたのしょうじょう)まで敗走して、お市の方とともに自刃(じじん)するが、女人が夫と最期をともにするのは、戦国時代では極めて異例なことだった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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