97歳で大往生を遂げた杉下茂
コロンブスの卵、という言葉がある。
新大陸を発見したクリストファー・コロンブスに、スペインのひとりの貴族が、「もし、あなたがインド(コロンブスはインドを目指していた)を発見できなかったとしても、他の誰かが発見していただろう」と詰め寄る。
その貴族に向かい、コロンブスは持って来させた卵の尻を軽く潰し、テーブルの上に立ててみせる。
「誰かがやった後なら、どうすればいいか、誰だってわかるだろう」
コロンブスはそう言いたかったのだ。
プロ野球の世界においても、同様のことが言える。近年、フォークボールやスプリット系のボールを使わないピッチャーは、まずいない。
このボールの日本における開発者は誰か。さる6月12日、肺炎のため97歳で大往生を遂げた杉下茂である。
杉下の球歴は栄光に彩られている。通算215勝。54年には32勝をあげ、中日初のリーグ優勝、日本一に貢献した。
杉下にフォークボールを教えたのは明治大の先輩で、野球部の技術顧問をしていた天知俊一である。
1948年正月、杉下は岡山の琴浦商高で、東谷夏樹という投手にナックルボールを教えていた。明大に勧誘するためだ。
それを見ていた天知が「スギ、フォークボールというボールがあるけど、知ってるか?」と不意に聞いてきた。
以下は私が直接、本人から聞いた天知とのやり取り。
「知らない。聞いたこともありません」
「中指と人差指でフォークのように挟んで投げるからフォークボールというらしい。(指の長い)オマエなら放れるんじゃないか」
「で、どういう変化をするんですか?」
「ナックルだよ」
「回転しないんですか」
「そうだ。あとのことはわからん」
話はそれっきりだった。先に天知がフォークボールを「教えた」と書いたが、実は米国の情報を「伝えた」だけ。杉下は試行錯誤を重ね、独力で“魔球”をマスターしたのである。
「でも大学時代は、たった1球しか放っていない。立教戦で山崎弘というバッターに試したところ、振りかけたバットの根っこに当たり、転がったボールがサードのライン上で止まってしまった。それが内野安打。縁起が悪いから、それでやめてしまったんだ」
フォークボールの歴史は、そこから始まったのである。
初出=週刊漫画ゴラク2023年7月7日発売号