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哀愁のホエールズ。名人芸の選手たち【二宮清純 スポーツの嵐】

Text:二宮清純

「横浜大洋銀行」と揶揄されたりも

「日本シリーズ1戦目はホエールズが5対3で勝利しました」

「ホ、ホエールズ?」

 TBS系「情報7daysニュースキャスター」での安住紳一郎アナウンサーと脚本家の三谷幸喜さんとのやり取りの一部だ。

 横浜DeNAベイスターズと福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズ第1戦、勝ったのはホークスだった。

 それにしてもホエールズとは……。不意に懐かしさが込み上げてきた。言うまでもなくベイスターズの前身は大洋ホエールズだ。1950年の2リーグ分立を機に誕生した。

 その後、大洋松竹ロビンス、洋松ロビンスと名を変え、再び大洋ホエールズに。78年、本拠地を川崎球場から横浜スタジアムに移転したことを機に、横浜大洋ホエールズと改称、92年まで続いた。

 現ベイスターズ監督の三浦大輔は、横浜大洋ホエールズ最終年の入団である。

 なぜホエールズなのか。それは親会社の大洋漁業が、戦後、捕鯨を再開したからだ。

 大洋漁業の創業者・中部幾次郎は播磨国明石郡林村(現・兵庫県明石市林)の出身。1904年に山口県下関市に移り住み、日本初の発動機船を開発、漁場を開拓した。幾次郎が起こした会社が「林兼商店」である。

 中部家の屋号は、故郷の林村にちなんで「林屋」。幾次郎は祖父の代から「林屋兼松」を名乗っており、それを縮めて「林兼商店」に。マルハのハは林兼商店の商標でもあった。

 ホエールズの初戴冠は60年。西鉄を3度の日本一に導いた知将・三原脩によってなされた。70勝のうち、実に33勝が1点差の勝利。いやが上にも三原の手腕に注目が集まった。

 しかし、それからは長い冬の時代が続く。万年Bクラスの1980年代には、「横浜大洋銀行」と揶揄されたりもした。ホエールズ相手なら、貯金ができるというわけだ。

 ところで、このチームには昔から個性的な選手が多かった。少年時代、よく真似したのが近藤和彦の“天秤打法”。バットを天秤棒のように頭上にかざし、そこから振り降ろす独特な打法は一世を風靡した。

“ライオン丸”と呼ばれた名二塁手、ジョン・シピンの守備も忘れられない。併殺プレーの際のスナップスローは天下一品だった。

 また一塁手の松原誠は、ワンバウンドの送球を、相撲のまたわりのような姿勢で捕球し、絶対に後逸しなかった。

 名称が消えて、今年で32年。しかしホエールズは今も、多くのプロ野球ファンの心の中に生き続けている。

初出=週刊漫画ゴラク2024年11月15日発売号

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