ヤンチャな子の育て方
●徳元敏/1998年度卒・オリックス(1999-2004)、楽天(2005-2007)
●福川将和/1998年度卒・三菱自動車岡崎、ヤクルト(2002-2012)
徳元は沖縄水産高校時代からもう本当にワル。喧嘩も強くて度胸も据わっていた。ヤンキーの頭だったからね。自分の高校の時を見るようだった。
徳元は酒飲んだら飲んだ分だけ練習する。そういう昭和の人間だったからオリックスでは仰木彬さんにメチャクチャ可愛がられた。1年生で入ってきた時に当時エースの栗山と同部屋にしたんだけど、すごく仲が悪くてね。栗山は栗山で俺がエースだというプライドもあっただろうね。選手権の開幕戦の先発を徳元にしたら「栗山さんが部屋で口聞いてくれない」と言っていた(笑)。静(栗山)と動(徳元)。2人は対照的だった。
栗山は「プロに行きたいなあ」くらいだったけど、徳元は「絶対に行く」という気持ちで網走に来た。しかも沖縄水産時代に投手としては3番手くらいで主に外野手として使われていたし、足や打撃も良いものを持っていた。それでも徳元は「絶対に投手でやりたい」と強い気持ちがあった。
投げたら面白いものがあったし右の指が生まれつき少し奇形(〜〜〜〜)なので、サイドスローに転向させたらスライダーが鋭く曲がるようになった。ヤンチャでプロ向きな性格だったこともあり、栗山より早く一軍デビューを果たした。ただヤンチャな分やらかすことは多かった。プロ1年目の時、朝まで飲んで門限を破ってしまった。ロビーで寝ていたところ仰木さんに見つかったそうだ。それで仰木さんもそういう奴が嫌いじゃないからこそ「俺がいいと言うまで坊主にしとけ!」と言われて今も坊主。その後もずっと可愛がっていた。付き人のような関係性だった。楽天へのトレードも仰木さんは反対していたが編成が押し切ってしまったそうだ。
仰木さんとは俺も仲良くさせてもらった。シーズン後に亡くなった2005年も釧路に試合で来ていた際「お前どこにいるんだ?子供を連れて来いよ」と言ってくれた。その時、自分の体のことも分かっていたのだろう。試合前にベンチまで入れてくれて、選手たちに息子(優一)や野球仲間の親子がサインしてもらった。
その時、顔もどす黒かったし、釧路とはいえ夏場にジャンパーを着ていたので「体が相当悪いのかなあ」とは思ったね。でも「元気だよ。頑張れよ。会えて良かったよ」と。息子も嬉しかったと思う。自分の状態を分かって呼んでくれたんだと思う。仰木さんなんて雲の上の存在だけど、そうやってちょっとした繋がりで、田舎のいち大学の監督も可愛がってくれた。だから、どんな小さな繋がりでも一度繋がったら切れないようにしている。野球が繋いだ縁だよね。
素行不良な選手の取り扱いについてはよく聞かれるが自分はこうだ。最初はガツンといかず引いて、いろいろと話を聞いて「なんだ、そんなものか。俺の高校の時なんて、ああでこうで」と今じゃ言えないような話をする。そうすると皆「そうですか…」ってなる(笑)「お前ら甘ちゃんだよ。そんくらいでいきがってんな!それがどうした!」って。俺は頭(かしら)やるどころか頭を裏で引いていたからね。 野球も一緒。「もっとすげえ奴はもっといっぱいいるから頑張れ!とね。自分もヤンチャだったから大概は分かる。「こいつはヤンチャやってんな」って。見てみないフリもある程度してやらないとね。
徳元と福川はヤンチャでどうしようもなかった。どこかに行きゃ喧嘩していた。よく地元の漁師と喧嘩した。でも自分でケツ拭けなかったのは一度だけだね。あとは自分で始末つけてきた。青たんまでできて帰ってきたね。ただ「お前らが手を出したらプロは無くなるぞ」と言ったから我慢して袋叩きに。
話は知っていたが「どうしたんだ?」と聞くと「2人でふざけていて階段から落ちました」と。「ああそうか」と。ただ「大事な試合前に練習サボっていたのは許さねえ」と週間謹慎。とはいえ、あいつらいないと勝てないから「うちのレギュラー級人とシート打撃で勝負して1人の走者も出さなければ戻してやる」と言ってね。そしたらパーフェクト。うちの打者も結構良かったから、手加減したかもしれないけどな(笑)。
それで戻ってきたらリーグ優勝、選手権出場みたいなね。絶対的なエースと4番だった。 福川も大体大浪商の同期の金森監督が「樋越のところで預かってもらうしかない」と。でも相当根性があった。福川は大学選手権直前のオープン戦でデッドボールを食らってね。「ヒビ入っているんです」と言ったのは選手権を終えて網走に帰ってきてからだった。それでも打って守って活躍してくれた。
徳元と2人で強気の配球をしていたね。デッドボールを当てても「俺が行く!」みたいなね(笑)両方で熱くなる。秋の明治神宮大会代表決定戦で東北福祉大を追い詰めたの(1対2)も彼ら。それ以降は東北福祉大の伊藤監督が「オホーツクには良い高校生を行かせるな」と言うようになった(笑)。それまでは落ちた子を紹介してもらっていたのに。敵として認められた気がしたし、「北は東北福祉大」という時代だったが、プロも出して選手権にも出て「北にはオホーツクもあるぞ」という印象がこのあたりから付いてきた。
繰り返しになるが徳元と福川は本当に手を焼いた。練習もチャランポランだし(笑)でも福川も打てばホームランのような凄い打球も飛ばしていたし、時代も時代だから楽しかったね。親分(俺)の言うことは絶対守ったし。飲み代渡したりして「悪さだけはするなよ」と可愛がっていた。彼らは引退後に指導者として後進を育ててくれているのが嬉しい。
徳元は中学硬式野球の強豪・東練馬リトルシニアで監督をしている。勝ち気な性格が災いしてか職員としては球団に残れなかったし、そのあとに元プロの仲間と始めた野球塾も上手くいかなかった。それでどうしようとなった時に、横田さんと四分一明彦さんが立ち上げメンバーだった東練馬リトルシニアを紹介したんだ。
四分一さんは高校の監督時代からお世話になっていて、オホーツクの監督時代に精神的にも経済的にも助けてくれ、初代の父兄会長もしてくれた私の恩人だ。息子の秀明(現東練馬リトルシニア顧問)も初期の教え子だ。7〜8千万円くらいをトータルしたら注ぎ込んでくれたんじゃないかな。
四分一さんは「ではうちの会社で社員として雇いながら指導してもらいましょう」となったので、俺も徳元に「プロのプライド捨てられるか?」と。そうしたら「自分には家族もいるので頑張ります」とね。
最初は大変だったみたいだけど、侍ジャパンU‒15代表のコーチにもなったし、全国準優勝もしているからね。今も「親父に何かあれば俺が行きますから!」と言っているけど「いいって。俺はヤクザじゃねえよ」って(笑)福川は大卒プロの話もあったんだけど、やっぱりチャランポランなところが見抜かれてしまった。それで堀井哲也(現慶應義塾大監督)が監督していた三菱自動車岡崎に預けて2年後にプロへ行かせてもらった。
社会人の時も福川は「樋越さんが呼んでるんで、どうしても2日間休ませてください」と堀井さんに告げて俺のところによく来た。でも、飲み食いするだけで練習しないし、俺が遠征でいない間に来て俺のツケで飲み食いしたこともあった(笑)ヤクルトを戦力外になった時は韓国プロ野球へ行くと言っていたが「行って何するの?」と私は言った。「ブルペン捕手で残れるならヤクルトに残れ」と。今はコーチもしているので「我慢して良かっただろ」と数年前にも言った。
ブルペン捕手となると選手に比べて、そりゃ年収はだいぶ下がるけど「30いくつでそれくらいもらえるやつなんて一般社会でそんなにいないよ」と説得した。 そしてブルペン捕手を経て今は二軍でバッテリコーチをしている。球団に残って本当に良かったと思う。
出典:『東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方』著/樋越勉
『東農大オホーツク流 プロ野球選手の育て方』
著者:樋越勉
多くのプロ野球選手を輩出する北の最果て、北海道網走市にある東京農業大学オホーツクキャンパス野球部。恵まれた施設環境ではないにも関わらず、なぜ有力選手が育つのか⁉東農大学野球部のカリスマ、樋越監督の選手を見抜く眼力と、その育成術を紹介‼プロ野球選手の育て方、ドラフトへ送り込む手腕、練習環境の整え方などを、具体的に解説するプロ野球ファンや指導者必見の一冊。愛弟子の周東佑京のコメントも収録。
公開日:2022.02.19