プロ野球妄想年俸
本サイトや雑誌「がっつり!プロ野球」(日本文芸社)でも好評を博した『球界のレジェンド、今なら年俸はいくら?』。かつて球界で大活躍した往年の名選手がもし、現在のプロ野球でプレーしていたら、その年俸はいかほどか……を勝手に想像するこの企画。
今回は少し趣向を変えて、プロ野球界が誇るレジェンド助っ人、ウォーレン・クロマティをピックアップ!巨人でのプレーは7年間ながら絶大なインパクトを残した助っ人が、もし令和の今、日本でプレーしていたら一体いくら年俸を稼ぎだしていたのか⁉思いっきり“妄想”してみました!
クロマティの妄想年俸総額は7年間で38億5000万円!
⚫︎ウォーレン・クロマティ/読売ジャイアンツ
来日3年間で結果を残し、巨人との契約を2年延長したクロマティ。1987年は124試合で打率.300、28本塁打、92打点とそれなりの結果を残す。もちろん、現在のプロ野球界ではこの数字でも満点だが、当時のプロ野球界はバース、ブーマーといった「助っ人全盛期」。この数字ではなかなか評価が上がらなかった。さらにバツの悪いことに翌1988年は6月に指を骨折してチームを離脱。わずか49試合の出場に終わってしまう。
ちなみにこの年、クロマティは自身がメンバーに名を連ねるバンド『クライム』の活動にも力を入れており、本業の野球選手ではなくドラマーとしてテレビの音楽番組などにも出演。当然ながら巨人は良い顔をせず、契約延長の代わりに「音楽活動の禁止」を条件に付けたという。妄想年俸上も前年までの6億5000万円からの大幅ダウンは必至。とはいえ、前年の成績はケガの影響も多大にあったことから、ここでは3億円に設定させて頂きたい。
ケガも癒え、音楽活動からも身を引いたクロマティは来日6年目の1989年に大爆発することになる。開幕直後から打ちまくり、5月を超えても打率は4割をキープ。6月下旬に一度4割を切ったがそこから持ち直し、8月9日に再び打率を4割に乗せると、8月20日時点で.401。このとき、すでに規定打席をクリアしており、このまま残りシーズンを休めばNPB史上初の4割打者となったが、チームが優勝争いをしていたこともあって出場を継続。結果的に打率は.378となったが自身初のタイトルとなる首位打者を獲得。本塁打こそ15本に終わったがOPSは1.009をマークした。
これだけ歴史的な数字を積み上げれば、当然ながら年俸は一気に跳ね上がるはずだ。ただでさえ、前年は故障による出場数減で年俸が大幅ダウンしている。当然、マイナス分を一気に取り返す必要がある。そこで、算出させて頂いた妄想年俸はズバリ7億5000万円。在籍6年間で打率3割を5回(うち1回は規定打席未満)記録している超優良助っ人には、このくらい出しても罰は当たらないはずだ。
しかし、翌1990年が、結果としてクロマティにとって日本球界最後の1年になる。開幕直後から不振が続き、5月にはすでに監督を辞めていた王貞治に個人的なレッスンを請うたという。自宅マンションで個人レッスンも受けたが、このシーズンは最後まで数字が上がらなかった。
117試合で打率.293、14本塁打、55打点。現在であれば「優良助っ人」の範疇とよべる数字だが、クロマティ本人がそれを許さなかった。本稿三度目の登場となる自著『さらばサムライ野球』ではこう綴っている。
「俺は1年間悪戦苦闘し続け、結局.295、ホームラン14本、打点はたったの55でシーズンを終えた」
メジャーリーガーとしてのプライドが、こう思わせたのだろう。翌1991年はロイヤルズのキャンプに参加してメジャー復帰を果たすも、シーズン途中の8月に現役を引退。
日本では7年間プレーし、通算打率.321、171本塁打、558打点をマークした。打棒はもちろん、明るいキャラクターでも人気を博した「巨人軍史上最高の助っ人」――。その妄想年俸総額は7年間で38億5000万円!読者の方も、納得していただけるだけの額ではないだろうか。
公開日:2023.12.01